タンゴ・アン・スカイのこと

このあまりにも有名な、ディアンスのタンゴ、最近のギタリストは誰でも必ず一度は録音すると言っても過言ではありません。そして、実際に色々な人の録音を聴いてみると、その演奏スタイルは実に千差万別で、さながら、ギタリストのセンスを映し出す鏡のようです。

実は、この曲のアンリ・ルモワーヌ版の楽譜の裏表紙には、ディアンス自身によるコメントが載っています。(原文フランス語と英語訳)その英語訳をさらに日本語に訳したのが、下の一文です。演奏家の使命が作曲者の意思の再現であるなら、この曲をいかに弾くべきかは、きわめて明確です。

 

タンゴ・アン・スカイ再び

1985年のある日、パリの出版社、ルモワール社にタンゴ・アン・スカイの譜面を届けた時、私はこの曲が数年後に世界中で大成功を収めることになろうなどとは、夢にも思わなかった。私がこの曲を作曲した、というよりは、即興したのは、1978年のパリ。とあるパーティーでのことだった。それからの数年間、私はこの曲を、自分自身が作曲者であるということを隠して、コンサートで演奏していたが、今となっては、そのわけを語ることは出来ない。しかし、ついにある日、友人に、この譜面を出版しないなんて気違い沙汰だと説得された、というのが出版にまつわる話の顛末だ。

それから今までの12年間、おそらく何百回とこの曲が演奏されるのを聞いてきたが、その中で私が納得できる解釈は、ほんの一握りにすぎなかった。今の、この、いささか率直な気分が続くうちに付け加えておくなら、私の主な批判は、それらの演奏のほとんどは、まったくクラシック音楽的で、「蝶ネクタイと燕尾服」風のアプローチが大半を占めていたということだ。おかしなところでやたらにルバートがかかり、その上、弾きやすくするための「戦略的」なラレンタンドが多すぎる。おかげで、その演奏は、タンゴという感覚的で、むしろ官能的ですらある、影の世界のダンス音楽とは、似ても似つかぬものになってしまう。ダンスである以上、オープニングのハーモニクスから最後の和音まで、そのリズムは一定でなくてはならない。もし、奏者が自身の魂も顕わに演奏しようと決めたとしても、そこにリズムのゆがみがあってはならない。 

だから、優雅に、マニキュアをしたように飾り立てるのではなく、ブエノスアイレスのはずれの粗野な悪の街に、自らの心を解き放つ方が、よほどこの曲にふさわしい。 このタンゴは、一種の洒落。そのタイトルからわかるように、イミテーションだ。(フランス語で「sakï」は、塩化ビニルだとか、偽物の皮のことだ)だから、それにふさわしく、常に想像力豊かに、恥らうことなく享楽的に、突然のフォルテッシモやピアニッシモ、アクセントなどのダイナミクスをふんだんに取り入れ、そして、大げさなくらいに誇張して演奏しなくてはいけない。

このタンゴを、ほんのりとエキゾチックな香りのする繊細なクラシック音楽の小品というようなものに仕立て上げてはいけない。この曲は、けっしてそういうものではないのだから。この曲が、技術的に難しいことは否定できないが、この曲を弾くということは、そういう技術的な問題を乗り越えるということなのだ。(どうか、テンポの変化は最小限にとどめていただきたい)必要以上に堅苦しく、あるいは、叙情的にならず、この小品の生まれでたパーティーの雰囲気を作り出すように努めてほしい。微笑を深くしまいこんで、さりげなく弾いてほしいのだ。

そして、幸いな偶然から、楽譜に書かれていない音がいくつか、このこのタンゴの演奏に迷い出てくるようなことがあれば、作曲者はそういう即興を、両の腕を広げて歓迎するだろうことに、疑いの余地はあるまい、、、、

 ローラン ディアンス

蚊帳吊りウサギ