メカニック研究

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0−1.体の動きを言葉で表現するということ

 さて、遅々として進展のない「メカニック研究」ですが、「ストレスの知覚」を書き始めたものの、どうもその先、筆が進まなかったのには理由があります。それは、「ストレスの知覚」という章が、その単純な印象とは裏腹に、とても複雑な要素の絡み合った話題だったからです。書きたい内容をまとめようにも、その絡み合いを上手くほどく方法が見つからなかったのです。最近になってようやく、「こう書けば、私の言いたいことが伝わるかも知れない」というアイデアが浮かんできましたので、とりあえず、新しい考え方に沿って書き進めて見たいと思います。

メカニックの話をする時に、「体の動きを言葉で表現すること」の意味について、考えておくことはとても大切なことだと思います。「体の動き」は、より正確には「体を動かすときの感覚」と書くべきでしょう。自分が「体を動かすときの感覚」を他人へ言葉で伝えることの困難さは、いまさら言うまでもありません。たとえば、野球でも、コーチが何かアドバイスをすれば、まあ十中八九、選手のバッティングフォームは崩れます。「ボールをすくうように」とか「バットに乗せて運ぶように」などという感覚の表現は、きわめて個人的なもので、ほとんど人から人へ伝達される可能性はないと断言できます。もちろん、選手が独自の感覚を自分で発見したのに、コーチのほうが伝達したと誤解することは、あり得ることですが。

このあたりの事情はギターの演奏についてもまったく同じ事で、今、二人のギタリストに弾弦の際の感覚を言葉で表現してもらったとします。一人は、「弦を指先で捕らえて、ぐっとおしこむように」と言い、もう一人は「皿回しの皿でも回すように、弦の振動に逆らわずに振りぬく」と言います。さて、ここでこの二人の使う技術について何が言えるのでしょうか。私の意見は、「何も言えない」です。二人の指が弦に対し、物理的にはまったく同じ運動をしていたとしても、それは二人の脳から指への指令と、指から脳へのフィードバック、つまり「指を動かす感覚」が同一である、ということを保障しません。また逆に、「感覚」が同一である(そんなことがあればですが)としても、その結果として起こる指の運動が同一であると言うことも、保証の限りではありません。そして、指の運動がまったく同一であったとしても、爪の質や、長さ、形、さらに、指先の肉付きなどによっても、結果として発音される音の質は変わってくるでしょう。ですから、二人のギタリストが弾弦の感覚について語り合うと言うことには、ある意味では、英語と中国語で会話をするような、本質的な困難が付きまとっています。その上さらに問題を難しくしているのは、この場合ギタリストは往々にして、自分は「弾弦の際の感覚」ではなくて、「物理的な指の動き」という客観的事実を語っていると思い込んでいることが多いと言う事実です。しかし、そこに実際に「適当な方法で注意深く観察・立証された客観的事実」を見出すことは、ほぼ、皆無だと言って間違いありません。これは、ギタリストの怠慢と言うよりは、むしろ、ミリセカンド程度のタイムスケールで起こる弾弦という現象を、肉眼と直感で観察分析するという方法論に無理があるからであることは明白です。

たとえば、あるギタリストが、「私の弾弦法では、弦は表面板に対し約45度の角度で押し込まれ、弦は爪の先をすべるように抜けてゆく」と、語ったとします。さて、この発言の中に、どれほどの「客観的事実」が含まれているでしょうか?もし、これが物理学の論文で私がその論文の審査員なら、当然、投稿者であるギタリストに対して発言の内容を証明する証拠の提出を求めます。この場合なら、高速度カメラを使った指先と弦の運動の軌跡の記録などでしょう。もちろん、この場合、そんな証拠の提出ができるわけがありません。ですから、このギタリストが、かなりちゃらんぽらんな性格であった場合、この発言は「指は、角度はよくわからないけれど、表面板のほうへ押し込むように動かしているつもりで、まあ、45度くらいなと。弦が爪の上を滑ると言うのは、まあ、そう思っていると言うことで、滑らせずに弾くと言う人の音と比べてみると、やや柔らかい音が出ているように思うので、まあ、滑っているのかなと言っているわけで、でも、人によっては私の音のほうが硬いと言う人もいるから、本当のところはどうなんでしょう」くらいに、聞いておいたほうがよいかも知れません。さらに、「45度」といっても、いったい、何と何のなす角が45度なのか、まったく定義されていないことにお気づきになったしょうか。

このように書いてくると、まじめにギターの演奏技術について議論をしている人たちを中傷しているように聞こえるかもしれませんが、私の意図はそんなところにはありません。観察力の鋭い、知的なギタリストなら、肉眼と自分の感覚だけをたよりに、鋭く本質に迫る議論を展開する場合も、もちろん、あるでしょう。

私は、要するに、より建設的で有意義なメカニックの議論をするためには:

  1. 指を動かす感覚は、きわめて個人的で、言葉による伝達の困難なこと

  2. したがって、同じ言葉による表現が、必ずしも同じ感覚、同じ運動を保障しないこと

  3. この分野に、信頼するに足る科学的データの蓄積の極めて乏しいこと(たとえば、弾弦の際の指と弦の相互作用に関して)

この3つのことを、あらためて強調しておきたいだけです。

3について補足説明をするならば、たとえば、プランティングは、「ぶつぶつ音の切れる弾き方だから、良くない」と誤解されがちです。すなわち、プランティングではレガートには弾けないと。しかし、LAGQのすばらしい演奏を一度でも聴いたことのある方には、プランティングの積極的な提唱者である、テナントやカネンガイザーが、シルクのようなレガートを実現できることに、疑問の余地はないはずです。では、プランティング派の彼らと、非プランティング派のギタリストでは、どちらの方が、弾弦の際の指と弦の接触時間が長いのか? そんなデータはもちろんありません。3では、そういう意味で、データがないと言っているのです。しかし実際には、そんなものは、もちろん、音楽の場面々で違うでしょう。書いていていやになるくらいの「愚問」です。

上の1から3を再度噛み砕いて要約すれば、「頼りになるのは自分の感覚だけだ」という、なんともあっさりした結論に到達します。メカニックを向上させるためには、この、言葉を使って他人から移植することの出来ない、極めて個人的な「運動の感覚」を、自分の持っているの粗の目立つ不経済なものから、より洗練された効率のよい、新しい感覚に置き換えてやる必要があります。しかし、いったい、どうやって? 答えは極めて素朴です。今まで以上に、自分の指や腕の感覚に神経を研ぎ澄まし、自分の出している音に注意をはらい、いろいろな試みの中から新しい感覚の尻尾を探ってゆくしかないでしょう。だから、この話が次の「ストレスの知覚」につながるのです。

この「メカニック研究」は、基本的に、私独自の意見の開陳ではなく、文献調査の結果のレヴューですから、上の話は私だけの思いつきではありません。あの、エドゥアルド・フェルナンデスも自身の著書[23]の中で、同様の議論を、私よりも、よほど、くどくどと展開しています。あの人は、とても理屈っぽい人だったのですね。

 

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