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タキソールのこと

 「タキソールは20世紀最高の抗がん剤ともいわれ、現在では乳がん、非小細胞肺がん、卵巣がん等の治療に広く使用されています」 以前、私は有機合成化学の立場から上のような文章を平気で書いていました。しかし、この「20世紀最高の抗がん剤」で治療を受ける人たちの現実が多少なりともどのようなものかわかるようになってからは、なかなかこんな無邪気な文章はかけません。しかし、一方ではタキソールが依然としてほかの抗がん剤に比べて強い抗がん作用を持つ有用な薬剤であることは事実です。タキソールについてはすでに数多くの優れた解説が様々な立場から書かれていますから、いまさら私のようなものが付け加えることもないようなものですが、ここでは化学や医学の専門書にもあまり書かれていないタキソールの話に加えて、多少の私事をご紹介したいと思います。

 タキソールはタキソイドと呼ばれる一群の天然物の仲間のひとつで、イチイの木の樹皮からとれます。イチイの木に多くの薬理活性のある物質が含まれていることは古くから知られていました。例えば、紀元前に書かれたカエサルの「ガリア戦記」にはイチイの木からの抽出物を毒薬として使ったという記述があります。しかし、その後タキソイドの本格的な研究が始まるまでには2000年近くを待たねばなりませんでした。タキソイド系の化合物をドイツの薬学者ルーカスが初めて純粋なかたちで単離したのは1856年のことです。彼は大変な苦労をしてイチイの葉からタキシンという物質を非結晶性の白い粉として取り出したのです。単離といっても、その後このタキシンはいくつかの非常に似かよった物質の混合物であることがわかってきます。

 このルーカスがイチイから薬理作用をもつ物質を単離することを思いついたのにはちょっとしたエピソードがあります。ルーカスはある日フランスの獣医の書いた「イチイの木の毒性について」という論文を読んでいて、自分の住む町アーンシュタットで20年以上も前に起こった出来事を思い出しました。ある農場で羊の群れを柵で囲い込んでおいたところ、翌日になってそのうちの5、6頭が死んでいるのが見つかったのです。何らかの食中毒が疑われました。そこで獣医からの依頼を受けたルーカスが死んだ羊の胃の内容物を分析することになったのです。ルーカスは当初、鉛や水銀などの重金属による中毒を考えていましたが、分析の結果そのような証拠は全く見つかりませんでした。そこで彼は現場に戻って羊の囲い込まれていたあたりを調べてみると、そこにはイチイの木が植えられていて、その上、そのイチイの葉は羊の背の届くところまできれいさっぱりなくなっていたのです。こうして羊の死因はイチイの葉による食中毒と断定され、植えられていたイチイの木はみな切り倒されてしまったのでした。このルーカス自身の昔の体験とフランス人獣医の論文が彼をイチイからのタキシンの分離という仕事に導いていったのです。

 その後いくつかのタキソイド系の化合物が純粋なかたちで分離されるようになってきましたが、その化学構造は大変複雑で、その詳細が明らかになったのはごく最近のことです。今日ではタキソイド系の物質ではタキソールとタキソテールがあまりにも有名です。実はこのタキソールとタキソテールというのは商品名で、学術名はそれぞれ、パクリタクセル、ドセタクセルといいます。ですからタキソールと書いた後には本当なら ® または  をつけないといけないのです。タキソールは1971年にワニとウォールによって単離、構造決定されましたが、その後これが非常に強い抗腫瘍活性を持っていることがわかりました。タキソールはイチイの木の樹皮に含まれていて、その含有量は乾燥した樹皮の重量のわずか0.02%という少量です。皮を剥げばイチイは枯れてしまいますので、抗がん剤として充分な量のタキソールを確保しようとすれば、世界中のイチイはすぐに絶滅してしまいます。そこで、タキソールの化学合成をめぐって世界中の有機合成化学者が激烈な競争を展開することになるのですが、これについてはここでは書きません。

 化学的にはじめからコツコツと合成してゆくよりはるかに効率の良い方法がフランスのポティエらの研究グループによって開発されました。彼らはイチイの木に含まれる天然物である10−デアシルバカチンVという物質を出発原料に使ったのです。この物質はイチイの葉に0.1%程度含まれています。わずかな量のようですが、タキソールに比べればはるかに大量です。それに、イチイは少しくらい葉をむしっても枯れませんから、イチイの樹木園を作ってやればタキソールの原料の安定した供給が可能になります。このバカチンに13位側鎖という部分を化学的にくっつけてやるとタキソールが出来上がるのです。今日市販されているタキソールはみなこの半合成法で製造されています。

 この半合成法は全合成法に比べればはるかに効率が良いのですが、それでも13位側鎖だけは化学的に合成しなければなりません。この側鎖は小さな分子ですが、その合成には立体化学の制御というちょっとややこしい問題があって効率的に合成するのはそう易しいことではありません。あまり込み入った方法で作ると費用がかさみ、その結果タキソールが法外に高価になってしまったのでは困ります。この13位側鎖の合成法については世界中の研究グループがそれぞれに創意を凝らした方法を発表しています。私がオックスフォード大学のデービス教授の研究室に博士課程の学生として留学していたときに、同じ研究室の友人がこの問題に取り組んでいました。彼は私がその数年前に開発した「キラルなリチウムアミドの不斉マイケル反応」という方法に改良を加えて、とてもうまいやり方で13位側鎖を合成することに成功しました。その合成経路を下に図示しておきました。

こうして当初は全く意図していなかったものの、私は抗がん剤の開発の世界にわずかながらの貢献をすることになったのです。この後、私は少しずつ抗がん剤の化学合成という分野にかかわってゆくことになるのですが、もちろんこの頃はその後10年も経たないうちに自分自身ががん患者になろうとは夢にも思っていませんでした。