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長らく中断中だった治療の記録を再度書き始めるにあたって考えたのだが、おそらく私は、この治療の記録Uを、Tを書いた時と同じほどの情熱を持っては書けない。2004年の1月現在、すでに最初の手術から6年と少しが経過している。その間、二回目の手術を経験するという憂き目にはあったものの、一応の完治を達成した。現在の私の課題は、がんとの戦いではなく、手術の後遺症で大きく体力の低下した状態で、どうやって自分の暮らしを再構築してゆくかということだ。闘病当時とは大きく違った問題意識を持つ今の自分にとって、病気の治療のことを書くのは、そうやさしいことではない。記憶のあいまいな部分も多くなった。 こういうわけで、UではTとは少し違ったスタイルをとろうと思う。当時の私の手帳にはいくつかの重要な出来事のあった日付がメモしてある。Uではこのいくつかの出来事にまつわる話を順番に少しずつ書いてゆこうと思う。それらをつなぎ合わせてゆけば、1998年の秋から2000年の春までの様子がおおよそわかるだろう。これは、けっして詳細な治療記録ではないけれども、これ以上記憶の薄れてしまわないうちに書き残しておく価値のあることだろう。 それから、ひとつ告白しておかなければならないことがある。お気づきの方もあることと思うが、治療の記録Tには、ほとんどといってよいほど私の家族のことが書かれていない。HPの前書きで、それは、どれだけ私が客観的に家族の言動について書こうとしても、所詮それは「私の目からは、こう見えました」ということであって、私の家族の経験をよく伝えるものはないと考えたからだ、と書いた。それはそれで本音ではあるのだが、実はそこには、ほかにもっと大きな理由があった。 家族の誰かががんになったなどといえば、今までのいざこざがうその様、一転、全員が一致団結して患者の看病に全力を尽くすというような、テレビのホームドラマのような話を想像しがちだが、現実はそんなにおめでたいものではないということを、私は自らに加え、周りの患者仲間たちの経験を通して思い知らされることになった。どんな家族関係にも多少の「きしみ」や「ひび割れ」はある。そこにがん患者を抱えるという大きな圧力がかかったときに、力に押されてひび割れが閉じ、結果として「雨降って地固まる」という幸せなケースもあるだろう。そして、もちろん、それほど幸せでないケースも。 私ががんになって一番苦しんだのは、おそらく、私本人ではなく家族であったろう。逆に私にとっては、家族の苦しむ様子、そしてその中に深い亀裂の広がってゆくのを見ることは、死の恐怖以上に耐え難いことだった。そんな状況で、もし治療に失敗すれば、それは私にとって、最大の苦痛が取り除かれることを意味していたのは、なんとも皮肉なことだった。「こんな思いをするくらいなら、いっそ死んでしまいたい」と半ば死を宣告された者が望んでいるのだから、それはなんとも滑稽な事態ではないか。いずれにしても、ここに事の詳細を細かく書く勇気を、今の私は、おそらく将来の私も、持ち合わせない。だから、はなはだ歯切れの悪いやり方だが、治療の記録Uでも、Tと同様に、家族のことについては必要最小限のことしか書かない。そういう意味で、私の話はただの「きれいごと」だ。どうぞそのことを承知の上で、読んでいただきたい。この事は、後半を始めるにあたってどうしても書いておきたかった。
術後12ヶ月 最近、といってもこれを書いている2004年1月から見た最近、ということだが、ある人と話している時に、なにかの拍子に病気の話になって、「そんなにがんが怖いの?」と真顔で聞かれたことがある。かなり酒が入っていたとは言え、ひどいことを言うものだと思ったが、よくよく考えてみると、自分でも怖いのだか怖くないのだか、良くわからない気分になってくる。 ある意味で、死ぬのが「怖い」のは元気な証拠だ。これは6年前の入院・手術で学んだことだ。肉体的な苦痛があるレベルを越えると人間は、生きるも死ぬも、何も考えられなくなってしまう。その上、栄養や体力のレベルが大きく低下していれば、当然、脳だって正常には機能しない。半ば意識朦朧とした頭の中にはただ「痛い、苦しい」という言葉が駆け巡っているだけだ。こうなってしまえば、考えようによっては「怖いものはない」ということも出来るだろう。 治療の記録Tにも書いたことだが、死の恐怖というのは、一種の強烈な疎外感だ。自分ががんだと知らされ、数ヶ月の後にはこの世のものではないかもしれない、と感じたとたんに、目に映る世界の様子は大きく変わる。すべてのものが、自分とはまったくかかわりのないものに見えるのだ。卒業式の日の朝に見る校舎や校庭は、いつもとは違う。これは誰にも経験のあることだろう。今まで、あんなにあたりまえのように毎日を過ごした場所が、式の始まる前から、もう一足早く思い出の世界に滑り込んでしまっている。そして、明日からは校門をくぐる生徒たちの中に自分の姿はない、そういう感傷が頭から離れない。私には、告知以後は何もかもがそんな風に見えた。こんな気持ちを「怖い」と表現するのは適当か? 時はさかのぼって、今は1998年の秋。不思議なものだ。どうも最近、良く眠れない。いったいどうしたのだろうと思って、ある時、ふとカレンダーを見ると、日本へ帰って検査を受ける時期が近づいてきている。知らず知らずのうちに、考えないようにしていたらしい。我ながら情けないが、これが自然な反応なのだろう。再発のことを考えながら暮らしてゆくというのは、不思議な体験だ。よく、がんの告知を受けたとたんに時計の針が止まってしまった、という人がいるけれど、今になってみればこの言い方はとてもよくわかる。要するに、未来のことが考えられなくなるのだ。がんというのは、一般的に言って進行の遅い病気だから、今日元気なら明日はもちろん大丈夫、一週間後もまあ、大丈夫だろう。そういう意味で、今を生きることは出来る。では、一月後はどうか? 元気かもしれないし、もしかしたら、なにかの自覚症状が出ているかもしれない。がんの自覚症状というのは、それが直接がんに起因するものなら、いったん出たら普通はなくならない。どこかが痛くなったら、とにかくだんだん、だんだん、もっと痛くなる。一月後に自覚症状があれば、二月後には、特別な治療をしなければ、確実に悪くなっている。3ヵ月後にはどうなっているだろう? 半年後は? そう考えていくと、自分が生きている今日という日と、半年後、一年後の世界がつながっているのだというあたりまえのリアリティーが指の間から、ボロボロとこぼれ落ちてゆく。 最近は月賦などという言葉は、もう死語かもしれないが、日本から帰ってきてから、三年月賦で車を買った。おかげで、会社の行き帰りに走る高速道路の運転がずいぶん楽になった。ところで、上に書いたようなわけで、この3年月賦というのが、ちっともピンとこないのだ。毎月毎月、返済を続けて、そしてそのうちに自分はどこかへいなくなってしまう。そんな風にしか思えない。リンパ転移のない状態で、手術で完全に原発病巣の摘出が出来た場合の食道がんの5年生存率は、約80パーセント。そう考えれば、必要以上に悲観的になることはないのだけれど、やはり、私にとって三年後の世界は、はるかかなたに霞んでいて、見えない。 検査のため帰国、JAL422 もう何度目の病気がらみの帰国だろうか。いくら慣れたとはいっても、イギリスから日本まですし詰めのエコノミークラスでの12時間は辛い。だから、チェックインのカウンターに並んでいるときに、つかつかとよってきた係員から「今日は空席に余裕がありますので、ビジネスクラスにアップグレードいたします」といわれたときは、「ラッキー!!!」という気分だった。食事なんてどうせろくに食べられないけれど、とにかく脚を伸ばしてゆっくり休めるスペースがありがたい。ヒースロー空港では、ブリティッシュエアウェイズ以外の長距離国際便が発着するのは、ターミナル3。パスポートコントロールを通ると、広大な買い物街が広がっている。いつものようにロビー右奥にあるシェークスピアズ・ヘッドというパブに直行して、ギネスを飲みながら出発までの時間をつぶす。飛行機のなかでは、離陸後しばらくして飲み物のサービスが始まったら、とにかくジン・アンド・トニック。大して酒の強い方ではないから、これをさらに二、三杯飲めば、ゆっくり眠ってゆける。そして、酒がさめたころには、飛行機はシベリア上空をウラジオストックに迫っている。もう、三時間もすれば、日本だ。 10月23日 成人病センターにて、内視鏡、胸部CT 10月26日 腹部CT 10月27日 超音波(腹部エコー) 検査結果の説明 その日、私はいつものように大阪成人病センターの外来診察室に、Y先生とひざを突き合わせて向かい合っていた。時刻は午後三時半。ずいぶん遅い予約だった。Y先生は、壁のシャーステンに無言でCTのフィルムを貼り付けてゆく。輪切りになった私の胴体がずらりと並んだフィルムの升目の中に蛍光灯の光を通して浮かび上がる。今までに幾度となく経験した風景だった。 「のどのあたりはきれいやし、、」 その次に見せられたフィルムの画像を、私は一生忘れないだろう。そこには、一年前に見たのと同じ黄色い付箋がついていた。ちょうど、輪切り画像がのどのあたりから下へ降りてきて、横隔膜を過ぎて、ちょうど上腹部・肝臓の上あたりだった。 「白い丸いものが見えるでしょう?」 「4月のCTにはなかったんですか?」 「それが、なかったんです」 といって、先生は今回のCTと前回のCTを並べて見せてくれた。前回はただの黒々とした空間だった部分に白くて丸い斑紋があるのが、素人の私にもすぐわかった。そしてその斑紋に寄り添うように肝臓の影が見える。いくらも離れていない。これだけ近ければ、中へ入っていてもおかしくはない。先生は、私の気持ちを見透かしたようにこう続けた。 「肝臓には、まだ浸潤してないと思います」 「現実とはこんなものか」という思いに思わず奥歯に力が入る。ハッピーエンドなどというものは、所詮、おめでたいハリウッド映画の中にだけあるものだと、もっと早く悟るべきだった。しかし、また出てきたものは、出てきたのだから、パソコンのゲームのリセットでもあるまいし、何を言っても元に戻るはずもない。 「局部再発ということは、このリンパ節さえきれいに切除できれば、一回目の手術で原発がんをきれいに取りきれた状態と同じ程度の生存率が期待出来るんでしょうか?」 「そう思います」と、Y先生。 「しかし、ここ、かなり深いんでしょう? 開けてみてとり切れなかった場合は、、、?」 「いや、そんなん絶対にきっちり全部とります」 普通こういう場合、医者というのは、決して「絶対に」などと言わないものだろう。まったく、その場に不適当な反応ではあったけれど、私は思わず笑ってしまった。この人以外に、私の命を救ってくれる人はいるまい。 「そういうことであれば、また、手術は先生におまかせします」 こういう、ことの重大さに比べて、なんともあっさりした会話を交わした結果、私は二度目の開腹手術を二週間後の1998年11月18日、慣れ親しんだ成人病センターではなく、Y先生の手配で大阪市淀川区の成仁会病院でうけることになった。もちろん、できることなら成人病センターでの手術が望ましかったが、その時の私にはベッドの空きを待っている時間的余裕はなかった。執刀は、前回の手術と同じ、Y先生とK先生だ。二人ともセンターから出張して私の手術を担当してくれるのだった。 以前書いたことの繰り返しになるが、食道がん再発の予後は悪い。どれくらい悪いかは少し調べてみればわかる。例えば、国立がんセンターのホームページにはこうある。 「どのような治療をしても、再発した(食道)がんが治る可能性は非常に少ないと考えねばなりません。再発した場合には、およそ半年ぐらいの余命と考えられます。放射線や抗がん剤の治療で1年以上生きられることもありますが、がんの進行が早ければ3ヶ月以内のこともあります」
こういうわけだら、普通再発したがんを再手術することはめったにない。無駄だからだ。もう少し詳しく書けば、こういうことだ。最初の手術で、とりあえず、体の中にがんは見つからなくなった。しかし、それはあくまで肉眼で見えない、画像診断で検出できない、ということに過ぎない。普通のCTの分解能は5ミリくらいだ。それよりちいさいものは、見えない。今、仮に、散らかった部屋の中でカップ一杯の米粒を床にこぼしたとしよう。米粒一つ一つが小さながん組織だ。これを、掃除機などを使わずに、一つ一つ手で取ってゆく。これが手術だ。あらかたきれいになったところで、もういいだろうと掃除を止める。しかし、しばらくして、床の上の雑誌かなにかをを取り上げた時に、ぽろっと一粒どこからか米粒が転がり出てくる。これが再発だ。さて、ここで、この一粒が運悪く取り残した唯一ひとつの米粒だという可能性はあるか? もちろん、ないとは言えない。しかし、普通、われわれの経験からいえば、ひとつ取り残しがあれば、まだ2粒や3粒は必ず取り残している。それは、がんの手術にしても同じことなのだ。今、私が再手術をするということは、この腫瘤が最後の米粒だという可能性に賭けるということだろう。 その夜、イギリスで検査結果の連絡を待っている妻に電話をした。ただ、事実を告げる意外にすべはない。 「、、でも、Y先生は、手術できれいに取れると言っているから、、、」 地球を三分の一周ほどした電話の向こうには、ただ沈黙があった。 「大丈夫かい?」と、私。 「、、少し悲しい」と、つぶやくように妻は言った。 それは、われわれ夫婦にとって、たしかに「少し悲しい」夜だった。 10月31日 今度の飛行機もやはりJAL422。今回は、無料アップグレードはされなかった。本当のところ、もしアップグレードするといわれたら断ろうと思っていたから、ごく普通にエコノミークラスにチェックイン出来てほっとした。いまさら縁起をかついで何になるとは思うが、これこそ困った時の神頼み。普段の無信心などどこ吹く風だから、我ながら現金なものだと思う。 ヒースローを飛び立って3、4時間くらい、飛行機がモスクワ上空を過ぎてしばらくしたころ、機長から機内アナウンスがあった。 「ただいま当機進行方向左手の地平線上に、オーロラがご覧いただけます」 客席がいっせいにざわついて、皆が左手の窓に顔を押し付けている。私の横に座っていた若い女性などは感激してしまって、「わざわざ北極圏まで出かけても、遭えないこともあるというのに、、、」などと声をつまらせている。まるで、オーロラがポップアイドルかなにかのような口ぶりだ。残念ながら、こちらはオーロラを眺めて歓声を上げるような気分ではない。それでも、ちらりと窓の外に目をやってみたが、左手の空に見えたのは、なにやらぼんやりとほの明るい街明かりのようなものだけだった。あれでは、オーロラだと言われなければ気づくまい。オーロラが帰国する私を見送ってくれるなら、いったい今度、日本で私を待っているものは何なのだろう。 成仁会病院入院、レントゲン、採血など 成仁会病院は、五階建て70床ほどのごく普通の病院だった。一階には受付と待合室、診察室、それから、X線検査室。二階が手術室。3、4階が病棟で、5階には洗濯場や事務室があった。成人病センターとのコネクションから、消化器系の病気、特にがんの治療を得意としているようだった。入り口には色刷りのポスターが張ってあって、「当院での胃がん手術後の五年生存率は××パーセント」などという景気のよい数字が、摘出された胃のカラー写真などと共に私の目をひいた。確か70パーセントくらいの値だったと思うが、良く覚えていない。 入院も二回目になれば慣れたもので、案内された6人部屋のベッドにパジャマ姿で落ち着くのに、いくらも時間はかからなかった。センターの大部屋と同じくらいの大きさなのに6床も詰め込まれていて、かなり窮屈だった。壁の色も暗い灰色で、見るからに「病室」という印象だ。新入りの礼儀として、あたりの患者仲間にきっちりとあいさつをして回る。センターと違って、それぞれに入院の理由はさまざまだった。痔の手術を受けた人、風邪をこじらせて肺炎になった人、白血病の人、私と同じ食道がんの人。 食道がんのMさんは、70歳くらいだったと思う。センターのベッドに空きが出来るまで、成仁会で術前化学療法を受けているのだった。入院後しばらくは、流動食しか食べられない状態だったが、シスプラチンと5FUの効果で病巣が縮小して、閉塞していた食道が固形物の通る状態にもどったらしい。「あの人、最近、元気でてきたんや」と隣のベッドの患者さんが私に教えてくれた。確かに、顔の色艶もよくて、食事の時には病院食を嫌って、差し入れのうなぎなどを食べていた。私も、蒲焼のおいしそうなにおいだけは、お相伴にあずかった。 成仁会病院に入院してみて初めてわかったことだが、スポーツの試合に例えるなら、成人病センターは、華やかなメイントーナメントの行われる場所だ。しかしその派手なステージのほかにも、予選会、敗者復活戦などという、もうひとつ人の注目を集めない地味な試合の行われる所がある。この病院はちょうどそんな場所だったのだ。予選会とは、術前化学療法のこと。敗者復活戦とは、私のような再発患者の治療のことだ。実際に、この病院に入院している一月の間に、4人の食道がん患者と知り合いになった。そして、そのうちの二人は術前治療、残りの二人、私も含めれば、三人は再発患者だった。 手術、4時間50分、出血多量、一時脈が不安定、輸血4パック、翌日未明にしし座流星群、星の降る夜に さて、手術当日。前回と同じように、看護婦に鎮静剤を注射してもらってから、すっぱだかの上に薄い手術衣だけを羽織って、ストレッチャーの上に横になった。毛布をかけてもらってから、エレベータで二階の手術室に運ばれた。手術室の真中のライトの下で待つこと5分ほど。 「まだ、起きてはる?」 聞きなれたY先生の声がした。部屋の隅のほうには、K先生の姿も見えた。 私の方から、声をかけた。 「先生、おはようございます。また、よろしくお願いします」 「おはようございます。ああ、起きてはったんやね」 「ほな、ぼちぼち、やりましょか、、」 Y先生の声を合図に、麻酔担当の医師が何かをごそごそ引っ張り出したかと思うと、「ゆっくり息をしてくださいねー」といって、チューブのつながったマスクを私の顔にあてがった。まず、一呼吸。何も感じない。麻酔が効いてくるのには、案外時間のかかるものなのか。続いて、二呼吸目。すると突然、眉間に線香花火のような火花が散った。「あっ、効いてきました」と口を開こうと思ったが、その言葉が口に出る前に、私の意識は闇に沈んでしまっていた。 遠くから聞こえる人の声で意識が戻った。誰かが私に話しかけている。 「上手いこといきましたから、、」 K先生の声だった。そうか、手術は上手くいったのか。いったいどれぐらいの時間がたったのか。意識はまだ混濁している。目は開けられない。ベッドがごろごろと音を立てて動いているような気がする。回復室に運ばれているところか。それにしても寒い。奥歯がガチガチと音を立てた。こんなに寒いのは生まれて初めてだ。 「寒い、寒い、寒い、、、」 「ほら、電気毛布。早く」 婦長の声がする。いつもの命令口調だ。あっという間に電気毛布でぐるぐる巻きにされた。少しずつ、体に温かみが戻ってきた。それとともに、また、ぐるぐる回る頭の中から意識がどこかへ消えていってしまった。 翌日未明には、しし座流星群の活動が極大を向かえた。この時の流星群は活発で、欧州では数秒にひとつという文字どおりの星の雨が降ったそうだ。
手術から数日がたって、Y先生が手術内容の説明に来てくれた。いきなりこんな文句が口を突いて出た。 「先生、今度の手術もかなりしんどいですねえ。手術の後で痛いという意味では、前よりしんどいくらいですよ」 「あれ、もっと楽やと思ってはった?」 正直なところ、一ヶ所だけの切開なのだから、もう少し楽だと思っていた。読みが甘いのはいつものことだ。結局、術後のリハビリには前回と同様の苦労を強いられることになったが、その詳細は、ただの繰り返しになるので今回は書かない。先生の説明はこんなものだった。 「問題の物はきれいに取れました。それから、こういう場合の標準的な処置として、周辺の疑わしい組織は全部とりました。脾臓と、左の副腎、それから横隔膜の一部」 こう説明されても、にわかには、自分の腹の中がどうなったのかは、さっぱりわからない。脾臓の機能は何だったろう。それにしても、「脈が不安定」というのは、要するにどうなったのか。まさか、いったん止まったわけではないだろうが。副腎というのは、ひとつあれば用が足りるのだろうか? なにやら、体の中がスカスカになったような気がする。これで、私の体から持っていかれたものは、食道、胃(細い管になってしまった)、脾臓、左副腎、肺と横隔膜すこしづつ、頸部、胸部、上腹部リンパ節一そろい。それでも、そんなことは、結局は枝葉のことだ。さて、私の腹の中に、まだがんはあるのか、ないのか。 12月3日 抜糸 ようやく抜糸。胸を開いたわけではないので、呼吸に苦しむことはなかったが、今回の手術はとにかく痛かった。痛くてろくに食事も出来ない。硬膜外麻酔などでのきっちりした痛み管理は、これくらいの規模の手術になれば当然行われるべきだろう。シリンジポンプを買う金がないのか。 「パンチの兄ちゃん」のこと 抜糸も終わり、腹帯が取れたので、術後、初めて風呂に入った。風呂場へ行ってみると、脱衣かごには薄茶色のパジャマがひとつ。先客のあることがわかった。すりガラスのはまったアルミの扉をガラガラと開けて、脱衣場から洗い場へ入ると、湯気の中に人の姿があった。茶髪の短いパンチパーマに、すっかりそりあげた眉毛と、はれぼったい目。背中には、そんなに派手ではなかったけれど、なにやら彫り物が見える。ああ、隣の病室の「パンチの兄ちゃん」だ。 「おっス」 「こんばんわー」 と、なんとも、ちぐはぐなあいさつをすると、意外にも「パンチの兄ちゃん」のほうから話しかけてきた。 「兄ちゃん、えらい切ったーるなあ」 「何の病気?」 私の傷跡は、どこへ行ってもかなりの注目を集める。 「いや、食道がんの再発で、、、」 と、ひとしきり、自分の病気の説明をした。「パンチの兄ちゃん」は、ふんふんとうなずいていたが、私が一通り話を終えると、こう言った。 「わしは、脳梗塞や」 「兄ちゃん。こわいでー、、、脳梗塞」 彼は、体の左側がうまく動かなくなってしまったようだった。普段は、杖も突かずに一人で歩いているからそれほど重い運動障害ではないのだろうが、左手は、かろうじてグーとパーが出来る程度だった。洗い場のカランの前で、その思うように動かない左手を、実にいまいましそうに、彼は見つめていた。 この「パンチの兄ちゃん」には、もうひとつ印象深い思い出がある。土日の週末をひかえたある日の夜、私はいつものように廊下の突き当たりにある談話コーナーのソファに腰をおろして週刊誌を読んでいた。時折、病院の前の国道を暴走族のオートバイが猛烈な騒音を上げて走り抜けてゆく。その国道をはさんだ向かいには、仏具屋の大きな看板。ショーウィンドウのなかに巨大な仏壇がいくつも並んでいる。これは、なにかの嫌がらせか? もう消灯時間が近かったこともあって、談話コーナーには私以外の人影はなかった。すると、廊下の中ほどの病室から「ぺたっ、ずるっ。ぺたっ、ずるっ」と、おかしなスリッパの音をさせて歩いてくる人があった。「パンチの兄ちゃん」だった。彼は談話コーナーの端にある緑の公衆電話の前まで、左足を引きずりながら億劫そうな足取りで歩いてくると、受話器をとりあげた。「ピッ、ピッ、ピッ、」というダイアル音の後で、私から数メートル離れた電話機の向こう側で、誰かが電話をとった気配がした。 「おう。わしや」 パンチの兄ちゃんは横柄な口調で話し始めた。 「この週末やけどな。外泊するわ」 外泊というのは、入院中にいったん自分の家へ戻ってのんびりしてくることだ。久しぶりに女房の手料理を食べて、風呂に入って。これを楽しみにしない入院患者は少ない。ところが、電話の向こうに外泊の意思を告げた後の「パンチの兄ちゃん」の表情はどうもさえない。さえないどころか、もともと細い目がさらに細くなって、こめかみのあたりがヒクヒクと痙攣しているようにさえ見えた。 「なんでや。わしは外泊するて言うてんのや」 どうもこれは、まずいところに居合わせてしまったようだった。電話の相手は、「パンチの兄ちゃん」に向かって、さかんになにかまくし立てているようだったが、その声が私のところまで届くわけもない。重苦しい沈黙が病棟の廊下を支配していた。私は、蛇ににらまれた蛙のように、手足を硬直させて息をひそめているだけだった。 そのなんとも居心地の悪い沈黙を「パンチの兄ちゃん」の声が、破った。 「もお、ええわい!」 その語気に比べて意外なほど静かに、「パンチの兄ちゃん」は、受話器を緑の電話機のフックに戻した。と同時に、意に反して、私ののどが、ごくっと音を立てた。殴られるかも知れない。すっと、冷や汗が流れた。しかし、彼は、そのまま私のほうには見向きもせずに自分の病室へ「ぺたっ、ずるっ。ぺたっ、ずるっ」と病棟の廊下を帰っていった。 そして、その週末の談話コーナーには、もちろん、いつものように、つまらなさそうにスポーツ新聞を広げる「パンチの兄ちゃん」の姿があった。 安田先生来院、組織検査結果を聞く 成仁会病院の朝食は、ご飯とパンの日替わりだった。それはそれで、目先が変わって良いのだが、飲み物が毎日番茶なのには閉口した。和食の時はよいけれど、トーストに番茶では、困るだろう。そういうわけで、パン食の朝の私の日課は、病院から50メートルほど離れた路上の自動販売機まで、暖かい缶コーヒーを買いに行くことだった。まだ、歩くとキリキリと痛む傷口を片手で軽く抑えながら、もう一方の手に100円玉を握りしめて冬の朝の国道沿いの歩道を歩いてゆく。パジャマの上からガウンだけを羽織ったサンダル履きの私の姿は、まわりには奇異に映ったことだろう。それでも、そんな私に目を向ける人の数は思いのほか少なくて、皆一様にうつむき加減で、黙々と職場への道を急いでいた。こうしてひとたび世間というものから切り離されてみると、いよいよふらふらと水面を漂う浮き草のような自分がたよりなく思えてくる。果たして、自分はもう一度どこかにしっかりと根を下ろすことができるのだろうか。 朝食が終わってしばらくすると、担当医の回診の時間だ。週に一回の院長の回診の時は、どこの病院でもおなじこと。おなじみの「大名行列」がやってくる。やってくるのがただの担当医であれ、院長であれ、私の病状には、特にこれといった大きな問題はなかったので、診察もきわめて形式的だった。ただ、術後一週間ほどしてから出始めた微熱が、なかなかひかなかったので、成仁会病院の医師も「何でやろなー」と、多少は気にしていたようだった。結局、この微熱については、レントゲンとCTの検査の結果、院長から「あんた、胸に水がたまってんのや。そのうちひくやろ」と、まるで大雨が降って、出水でも出たようなような診断を下されて、一応の決着を見た。 さて、午前中の診察が終わってしまえば、いよいよ、することがない。病院の横には背の高いマンションが立っていて、窓際のベッドに横になって外に目をやると、窓のひさしとマンションにはさまれた、細長い短冊のような空が見える。その短冊を、時折雲が横切ってゆくのをぼんやりと眺めていると、まだ日も高いというのにまぶたが重くなってくる。子供のころに飼っていた犬のことを思い出した。そういえば、あいつも晩年は朝から寝てばかりいた。そういう半ば意識朦朧とした状態だから、Y先生の言葉の意味するところを承知するにはしばらく時間がかかった。 「それが、あらへんねん」 摘出した組織の病理検査の結果を、告げに来てくれたY先生は、私のベッドの横で、いかにも困ったような顔をしている。それにしても、なにやら、一年前にも聞いたような言葉ではないか。 「あらへんと言うと、先生、、」と、適当な言葉を探ったが、見つからない。 Y先生は、黙って病理からの検査報告書を私に差し出した。それは、緑色の枠の印刷された小さな紙切れのような報告書で、所見の欄には、汚い下手くそな字で「炎症性肉芽細胞のみ、atypical
cellを認めず」と書かれていた。アティピカル・セルとは、正常ではない細胞ということだ。がん細胞は見つからなかったのだ。 「ほな、あれはなんやったんでしょうか?」 当然の質問だろう。 「いや、わからへんのです。結局、腫瘤が大きくなってくると、取り出した時点では、もうもともとの組織は、ほとんど跡形もなくなってますから、それが以前はリンパ節やったのか、何やったのか、わからへんのです。周りには、前回の手術の時の縫合糸なんかも残ってましたから、もしかしたらそういうものに対する異物反応で出来た組織やったかもしれません。でも、稀にではありますけれど、こういう形で小さな局部再発が自然治癒することもないわけではないんです。そういうわけですから、予定していた、術後の抗がん剤治療はやりません」 さて、異物反応か、自然治癒か。答えは「藪の中」ということになってしまった。人の体には時として不思議なことが起こる。その後も、何人かの専門医に意見を聞く機会があったが、自信を持って手術が不要であったと言える医者はいなかった。 退院 しつこかった微熱もようやくひいて、私が成仁会病院を退院したのは、入院からちょうど1月ほどたった12月17日のことだった。今度の入院でも、前回と同じように、がんを患う人たちとの出会いが心に残った。 術前の抗がん剤治療をするために、愛知のがんセンターから移ってきたOさんのがんは、食道の入り口近くにあった。手術後の再発のリスクを下げるには、出来ればすぐ上の喉頭も切除したいというのが、医者の側の理屈だ。喉頭がなくなっては、しゃべれなくなる。その上、再建後は、息をする管と食べ物を通す管が別々になるから、のどの下にぽっかりと穴が開く。うっかり風呂にどっぷり肩までつかりでもすれば、穴から肺に風呂の湯が流れ込む。そんなおかしな姿になって、不便な生活をするのはいやだというのは、もちろん患者の理屈だ。しかし、どんな姿でも、とにかく、生きていてほしい、というのが、家族の立場の理屈でもある。いくつもの理屈が、Oさんの治療をめぐって、押し合いへし合いをする。Oさんは、迷っていた。 1997年の夏、私のちょうど2月ほど前に、K先生の執刀で食道がんの手術を受けた岡山のIさんは、胸膜への再発病巣を摘出するために、入院して来ていた。私とちょうど同じような立場の人だったから、歳の近かったこともあって、よく談話コーナーで、あれやこれやと情報交換をした。 「手術の後、職場復帰をしたといっても、結局、椅子に座っているというだけでしたねー」 「ああ、やっぱりねえ、私もそうでした」 というような、なんでもない会話が、どれだけ私に病気と向き合う勇気を与えてくれたことか。痛みを分け合うとは、まさにこういうことだろう。 退院後のリハビリは、前回となんの変わるところもなかった。体重はやはり50kg前後まで落ち込んだし、散歩に出た先では、背中の痛みで動けなくなって、近くの喫茶店に転がり込んで休んだ。イギリスに帰ったのは、翌年の1月4日。勤めに戻ったのは、1月25日。4月には、女房と二人でスペインへ旅行に行った。セビリアから、コルドバへ。思えば、結婚以来あれほど二人でのんびりした時を過ごしたのは初めてではなかったろうか。コルドバのローマ橋のたもとで腹痛を起こして、小1時間座り込んだりもしたけれど、それでもそれは、かけがえのなく幸せな時間だった。
成人病センター、胸部CT、Nさんに会う 2度目の手術から半年と少しのたった1999年の7月、私は、久しぶりに経験する大阪の夏の暑さに、少なからず閉口していた。術後初めての定期検査のための帰国だった。今回の検査は胸部CTからスタートだ。センターの入り口を入ると、いつものようにごった返したロビーの人ごみの中をかき分けるようにして、中央受付の左端にある保険証確認の窓口へ行き、診察カードと保険証を出して手続きをした。カードのすみに保険有効のシールを貼ってもらって、二階のX線検査の受付へ向かった。予約票とカードを窓口に出して待つこと10分ほど。名前を呼ばれて脱衣場へはいった。検査衣に着替え、服をロッカーへいれて、受付でもらった小さな金属円板をコイン替りにしてかぎをかけた。そして振り向いた時、ちょうどカーテンを開けて杖を突きながら入ってきた人を見て、私は一瞬全身の血が凍りついたように思った。 それは、最初の手術のために成人病センターに入院した時、同じ日に入院してきて隣り合わせのベッドを割り当てられたNさんだった。「同期の桜、よろしくお願いします」と、声をかけてくれた人なつっこい人だ。彼は、C型肝炎から肝がんを発症していて、検査の結果、腫瘍の広がりが思ったよりも大きかったため手術が出来ず、自宅に近い病院で化学療法を受けるために退院していったのだった。進行した肝がんの化学療法では、基本的に完治は期待できない。あれから、二年。正直なところ、私はまだ彼が生きているとは思っていなかった。 そんな私の心の中を見透かしたように、Nさんは、黄疸の出た土気色の顔に少し照れ笑いを浮かべながら口を開いた。 「幽霊じゃないんですよ。Nです。まだ生きてます。お元気そうですね、その後、いかがですか」 Nさんの大きくこけた頬を見て、懐かしさと悲しさの入り混じった、なにかいいようのないものがこみ上げてきて、私は言葉に詰まった。それでも、ようやく口を開くと、少ずつこの二年間のことを話した。 「いや、実は私、二回目の手術をしたんです、、、」 そのあと、Nさんも自分の検査の順番を待つ間、ポツリポツリとその後の病気の経過のことを話してくれた。 「入院は、もう、今年になって3回目なんです」 「肺転移と骨転移が何ヶ所かあったので、放射線をあてて、、」 「放射線をあてたところは、きれいに骨がなくなってますわ」 「でも、ようやく、腰骨のやつが消えたと思ったら、また背中のあたりが痛いんです」 といいながら、彼はしきりに肋骨のわき腹から背中にかけてのあたりをさすっていた。 「痛いですか」 「モルヒネをもらってますけれども、やっぱり痛いです」 「一度、退院してから、生まれて初めての海外旅行にグァム島へ行って、、」 「今度の退院の時も、中国へ行ってみようと思ったんですけど、しんどくて行けませんでした」 「食欲のあるうちは大丈夫やと思ってたんですが、そろそろものを食べるのもおっくうになってきて、、」 「今、姫路の実家の近くにホスピスを探してます」 二人でこんな会話を交わした。そして、それぞれの検査が終わって再び廊下で顔を合わせると、Nさんは私の手を握って言った。 「ゆっくりとしか歩かれへんから、どうぞ先へ行ってください。お元気で」 「放射線でもう少し具合が良くなって、中国へ行けるようになればいいですね」 私たちは両方の手を握ったまま、じっとお互いの顔をみつめたあと、X線検査室の受付の前で別れた。それまでにも、身内の臨終の床の横に立ったことはあったけれども、本当の意味で、死に向かう人を心からの共感と同情をもって見送ったのはこの時がはじめてだった。そんなことに気づいたのは、ずいぶん後になってからのことだけれども。 17日にはY先生から異常なしの判定をいただいた。その帰り道、阪急ingsによって、体脂肪率測定をしたら、13.5%だった。(男性標準15−20%)
続く(後、ほんのすこしです)
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