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1997年の7月のことだった。私は5年ぶりの健康診断を受けるために、オックスフォードからロンドンへ向かう列車に揺られていた。前年の冬以来、どうも体調が良くない。3ヶ月にわたった不規則な交代勤務の疲れがとれないのだった。とはいえ、特別にどこかが悪いというわけではなかった。ただ、念のため、というつもりの検診だった。ロンドンのシティーにある日本人向けの病院、グリーンメディカルに着くと地階の検査室に通された。後ろ開きの、割烹着のような検査衣に着替えて検診が始まった。検査項目は胃のX線撮影(バリウム造影)、胸部X線撮影、血液/尿検査、心電図、血圧検査、問診、といったごく簡単なもの。これで500ポンド(約9万円弱)は高いと思った。一時間ほどで終了し、医師の説明を受ける。 「血圧が少し高いようです。下が96に、上が140。」 私の母もやや高血圧気味だ。あまり驚かなかった。X線フィルムを壁のシャーカステンに貼ると、医師は「それから、食道のここですが」と指をさした。 「明らかに、何か写っています。おそらく、心臓の影が強く出ているのだと思いますが、念のために他の先生にも見てもらっておきましょう。まあ、心配はいりません」 確かに食道の一部に食い込む黒い影が素人の私にもはっきり認められる。なんだろう、心臓の影? そんなものかな? 私には自分の食道の画像はただの荒縄のように見えた。まあ、医者が心配ないというのだから、心配ないのだろう。それ以上は考えなかった。詳しいレポートは後日郵送してくれるということなので、その日はそのまま帰った。帰りのバスの中で「血圧計を買わなくちゃあ」と考えていた。50ポンドも出せばいいのだろうか。 検診を受ける一月くらい前から、ひとつだけ気になっていたことがあった。たびたび胸焼けをおこすのだ。酒はそこそこ飲むほうだから、朝起きて胸がヒリヒリすることはたまにはあった。ふつう夕方までにはよくなっている。それが二日、三日と続くのだ。しばらくよくなっても、一週間もすると、胸に痺れるような不快感が戻ってくる。ほうっておくと、またよくなってしまう。このときには食道に写った影と胸焼けを結びつけて考えることはなかった。 検診を受けた翌日、学会に参加するためにイングランド北部の町、リーズへ向かった。退屈な発表の続くつまらない会議だった。会場のホテルで一泊して、翌日にはまたオックスフォードへ戻った。リーズの駅で帰りの列車を待つあいだにコーラとチーズバーガーを食べた。バーガーを大きくひとくちほおばり飲みこんだ。すると、妙な違和感があって食べたものが喉仏の下のあたりでつかえてしまった。今までに経験したことのないことだった。胸をトントンと叩くが飲み下せない。コーラをごくっと一口。すると、違和感のあったあたりに少し圧力を感じたかと思うと、バーガーはコーラとともにするっと胃の中に流れ込んでいった。こんななんでもないことが妙に記憶に残った。これが、初めて経験した食道狭窄による嚥下困難であることは後になって知った。 血圧がやや高いのは運動不足のせいだろうと思い、久しぶりにジョギングをはじめた。手首に巻きつける型の血圧計も購入した。一回に3kmくらいを週に二回か、三回走った。たったそれだけのことで、90/135くらいあった血圧はストンと80/120くらいに下がってしまった。やっぱり体を動かすようにしなければだめなんだな、と思っていたある日、グリーンメディカルから検査結果のレポートが郵送されてきた。封を切って一瞥した。血液、尿検査の欄にはずらっと正常値か並んでいる。ホッとして視線を移すと、X線の欄の「食道狭窄像の疑い」というコメントが目に入った。「精密検査をうけてください」とある。あれは心臓の影ではなかったらしい。不安が胸の中でぐっと頭をもたげるのを感じた。食道狭窄をおこすような病気は? 医学書を手にとって食道疾患の項に目を通した。 食道はのどと胃をつなぐパイプ。ごく簡単な構造の臓器だ。先天性の奇形などを除いてはめったにトラブルを起こすことはないらしい。よくある病気といえば、胃液の逆流による食道炎か食道癌だ。レントゲンにあれだけはっきり写るのだ。単なる食道炎であるはずがない。医学書の記述を何度も読み直し、検査の結果と自覚症状を分析する。化学の研究に長く携わって来たからこういう作業には慣れている。数多くの実験事実から合理的な結論を導き出す。特定の実験で反証される仮説をひとつずつ消してゆく。そして、最後に残った仮説がその時点での最も確からしい結論だ。この場合、どう考えてもたどり着く結論はただひとつ、癌だ。体中の筋肉がこわばっているのを感じた。「俺は癌だな」― 暗い確信が広がってゆく。いずれにせよ、早急に精密検査を受けなければならない。医学書には「最近では手術で完治することも多いのです」とある。「とりあえずこれを信じよう」そう思った。 検査結果を受け取った日の一週間後、私は精密検査を受けるために再びロンドンへ向かった。今回は車で行くことにした。ロンドンはオックスフォードから車で一時間半くらい。M40をまっすぐ東へ走る。受付で名前を告げると、今回は一階奥の診察室へ通された。出てきたT医師は私より若いかもしれない。30代後半だろう。痛み止めの注射のあと、喉に麻酔のスプレーを吹きかけて、口から内視鏡を入れる。いわゆる胃カメラだ。左肩を下にしてベッドに横になった。カメラがのどを通るとき軽く吐き気を覚えたが、その後はすんなりと通った。(後になってわかったが、T医師の手技はかなり上手なほうだ。)時々看護婦が背中をさすって励ましてくれた。カメラが患部に達すると、医師はアダプターをつないで写真をとり始めた。その後、看護婦に指示をして患部の組織を少量つまみとった。採取した組織を病理検査する生検だ。さらに胃、十二指腸までカメラを入れて検査をした。30分ほどで終了。 検査の後、しばらく待合室で待たされた。当然、悪い結果を告げられることは予期している。しかし、「もしかしたら癌ではないかもしれない」という気持ちは消えない。不安と希望が拮抗する。ほどなく、名前を呼ばれて小部屋へ通された。T医師は私の顔をじっと見ると、口を開いた。「99パーセント」といった後、言葉を切ると軽く息を飲み込んで、きっぱりと続けた。「がんです」― 告知の瞬間だった。驚かなかった。なぜか当然のように思えた。机に向かった医師が先ほど撮った写真を見せてくれた。食道壁に赤っぽく盛り上がった異物が見える。 「まず、まちがいないでしょう。単なる、食道炎の可能性も、完全には否定できませんが、組織検査の結果が出れば、はっきりします。」 「初期のがんでしょうか?」 「大きさは3-4センチ程度で、すでに進行癌の状態です。大体、見つかるときはこんなもんです。早急に手術をする必要があります」 不思議と「助かるでしょうか?」という質問は私の口からは出てこなかった。とりあえず、T医師には今後の対処の仕方については「家族とも相談して決めたい」と話した。生検の結果はわかり次第、連絡してもらうことになった。 家への帰り道、車であふれ返るロンドンの街を運転しながら自分の今後のことを考えた。今から半年後、一年後には自分はこの世にいないのか? ふと気が付くと、病院を出てからまわりの景色がいつもとちがう。何かよそよそしく、非現実的に見える。まとまらない思考を現実の世界に引き戻そうと苦労していると、突然、後ろの車から激しくクラクションを鳴らされた。私が直進車線から右折しようとしたせいらしい。冗談じゃない。大目に見てくれよ、これくらいのこと。俺はガンなんだ。 幸い、告知のショックが長く尾をひくことはなかった。まずはGP(主治医)に相談して食道疾患の専門家に連絡をとってもらった。幸いなことに、オックスフォードにはジョン・ラドクリフ病院(JRC)という英国でも有数の大病院がある。ここで治療が受けられれば好都合だ。しかし、イギリスの医療には良い印象はない。すべて無料だというのはありがたいが、とにかく対応が遅いのだ。現に、JRCの専門医とのアポイントメントの日時も、郵便で通知が送られてくるという悠長さだ。こちらは自分の命がかかっている。専門医との面談の日を待つあいだに、知人の紹介で、オックスフォードから車で40分ほどの町に住む日本人医師、Cさんを訪ねた。ここであらかじめロンドンのグリーンメディカルから連絡を受けていたCさんから組織検査の結果、やはり腫瘍は悪性であったことを告げられた。予期していたことだ。もう特にショックはなかった。Cさんの話では、「イギリスと日本のあいだに特に外科手術のレベルの差はない。また、術式はすでに確立されていて、どちらで手術を受けても大差はないだろう」ということだった注)。Cさんは私と同じ大学の出身で、学部は違うが私の先輩ということになる。大学時代のことなどに話がおよび、あれこれと雑談をしている時、彼がふと、こう言った。 「○○さん、今こうして生きている人たちだって、後50年後にはほとんどみんなこの世にはいないんですよ」 とっさには彼の真意を量りかねた。この人は私が助からないと思っている、そんな簡単なことがわかるのにしばらくかかった。「50年経てばみな墓の中」、そう考えてみたところで、私の気が楽になるわけもない。助からないとすれば、残された時間はどれくらいあるのだろう。せいぜい一年か、半年か。「半年と50年ではずいぶん違うでしょう」、のどまで出かかったこの言葉をぐっと飲み込んだ。それでも、後日、Cさんの勤務する病院で胸部、腹部のCTによる検査を受けた。幸いなことに明らかなリンパ転移は認められなかった。肺も肝臓もクリアだった。 「これなら、いけるかもしれませんよ」 Cさんの口からもポジティブな言葉が出た。しかし、腫瘍そのものは大きい。CTは通常ガンのステージを低めに評価することを考えれば楽観は出来ない。ただ、少し希望の光が見えたように思った。この時点での診断は次のようなものだった。 組織検査の結果、ガンは扁平上皮ガン(日本人の食道ガンの多くはこのタイプ。欧米では腺ガンが多い)で、分化の程度は中程度だった。大雑把に言って、悪性度、転移のしやすさは中程度ということだ。原発病巣は食道のほぼ中央にあり、長さは約7.5センチ。その深さは粘膜組織を越えて筋層に達しているが、明らかな周辺組織への浸潤は認められない。リンパ転移も遠隔転移もない。したがって、TNMステージ分類で言うと、T2N0M0ということになる。 注)食道ガンの外科的治療、食道の切除とその再建方法については、実はまだいろいろと議論の余地があるらしいことは後になって知った。特に、再発予防のために周辺のリンパ節をどの程度まで取るのか(リンパ節郭清)、という点については統一見解といったようなものはないようだ。また、欧米での食道ガンの5年生存率は10%にも満たないが、日本では、病院にもよるが、ほぼ30%程度だ。この差がガンの種類の違いによるものなのか、治療技術・方針の差によるものなのか(あるいは両方?)は明らかではない。 Cさんとの面談の結果、オックスフォードのJRCで治療を受けることに大きく気持ちが傾いたが、念のため、日本での治療に関する情報収集だけは続けていた。私の実家は大阪にある。だから、もし帰国して治療を受けるのなら関西の病院であれば都合がいい。幸い、高校時代の友人が何人か医者になっている。早速電話をして、大阪近辺で食道ガンの治療に実績のある病院を調べてもらった。友人たちの意見によれば、大阪なら森之宮の府立成人病センターがベスト。ここは全国でも有数のガン専門病院。特に食道専門のチームがあって信頼できるということだった。また、治療方針については、やはり日本では早急に手術で切除するのが一般的だということだった。 一方、オックスフォードのJRCの対応は至ってのんびりしていた。食道疾患の専門医、C医師とのアポイントメントが取れたころには、告知から二週間以上が経過していた。JRCからの手紙には「レーザーによる治療を始めるので内視鏡検査室へ来るように」とある。約束の日にJRCに出向いて待合室で待つこと一時間あまり、看護婦が現れて「治療を始める」という。医者からの説明も何もない。いきなり麻酔の注射をしようとする。いくら何でもこれはひどい。慌てて看護婦の手をさえぎって、医者との面談を要求した。 しばらく待った後、いかにも忙しそうにC医師が現れ、小部屋に通されて何とか話をすることが出来た。C医師は50代後半だろう。恰幅の良い、大柄な人だった。とりあえず、「治療方針を説明してほしい。日本の医師からは早急に切除手術をすることを勧められているが」と切り出した。C医師はなんとも面倒くさそうに「日本ではどうだか知らないが」と話し始めた。彼の説明は次のようなものだった。 欧米では手術の前に放射線、またはレーザーでの治療を試みるのが一般的。私の場合も、光増感剤を用いたレーザー治療を行い、経過を見る。その後手術をするかどうかはわからない。とりあえず、今日のレーザー治療は腫瘍の一部を焼いて、食べ物の通りを良くするのが目的。 言葉の端々に「どうせ素人に話してもわからないだろう」という態度が見え隠れする。C医師はこれだけ言って最後にカルテにチラッと目をやると、「SCC(扁平上皮ガン)か。放射線の良く効くやつじゃないか」と独り言のようにつぶやくと、私に治療室へ戻るように促した。私はこの極めて高慢、不親切、かつ不十分な説明にすっかり頭に来てしまった。とりあえず、当日の治療だけは受けることにしたものの、この時点で日本へ帰る決心は半ばかたまってしまった。どうせ助からないにしても、「この医者の手にかかって死にたくはない」と思ったのだ。 ガンの告知を受けたのが7月の末。このころから、胸の疼痛かはっきりとした症状になってきた。胸の真中の胸骨の裏、ちょうど心臓のあたりの深いところがしみるように痛む。ぴりぴりと電流が流れるようだ。まだ我慢できないというほどではなかった。8月に入ると、ほぼ四六時中痛くなった。しばらく何も感じないかと思うと、またすぐ痛む。食べ物の飲み下しも少しずつ難しくなってきた。7月の始めにハンバーガーをつまらせたころは、一度に大きな塊を飲み込まなければ大丈夫だった。8月に入ると、食事に水かお茶が欠かせなくなった。良く噛んで食べれば大丈夫だが、それでも時々サンドイッチのようななんでもないものがつかえた。水で流し込めるときもあるが、無理をすると口の中に逆流してきてしまう。食事のスピードが極端に遅くなった。口の中の食べ物を飲み下す瞬間がとても不安だ。ごくっとやった後、それが胃のほうへ流れ行くのか、口の中へ戻ってくるのか、やってみるまでわからない。ひと口、ひと口がおっかなびっくりだ。 このとき、人間の基本構造は一本の管、言ってみれば、ちくわのようなものなのだとしみじみ思った。人間のことを万物の霊長などというけれど、一方の穴から食物を摂り、もう一方の穴から排泄することに関してはナメクジなんかの下等動物と何の変りもない。ただ、管のまわりについている手だの、足だの、頭だのといった付属器官が多少複雑だというだけのことではないか。それが証拠に、管の途中にちょっとできものが出来ただけでこのありさまだ。
JRCでの一件ですっかりイギリスの医療への不信感をつのらせた私には日本へ帰る以外の選択肢は考えられなかった。妻がオックスフォードで仕事をしていることや、手術後のフォローアップを考えれば問題は多い。しかし、それは生き残るためには仕方のないことに思えた。早速、日本への航空券の手配をした。片道ではなくて、往復のチケットを買った。帰りの便の指定のない一年有効のオープンチケットだった。こうして、97年の8月、私はつい一ヶ月前には考えてもみなかったような形で日本へ里帰りすることになった。 私の両親は大阪の千里に住む。森之宮の成人病センターまでは阪急と地下鉄で一時間ほどだ。地下鉄の森之宮駅から地上に出ると、大阪城公園の南東の角に出る。狭い小路に飲食店の連なるごみごみしたところだ。阪神高速の高架の下を東へ200メートルほど歩くと、右手に見えるのが成人病センターだ。最初に見えるのが本館。昭和30年代の建物ではないだろうか。恐ろしくみすぼらしい。この病院でよかったのだろうか。不安が胸をよぎった。その奥にあるのが新館。こちらは12階建ての多少新しいビルだ。少しほっとした。外科外来で食道チームのK先生の診察を受けた。友人の医者があらかじめ紹介状を送ってくれていたので、私がはるばるイギリスからやってきたことなどもK先生は承知していた。歳は40代後半だろうか。とても優しい話し方をする人だ。説明も丁寧だった。ただ、話された内容はやや厳しかった。 私の持ち込んだCTのフィルムを見た限りでは、「ガンの進行度は成人病センターのほかの患者さんと比べて特に悪いほうではない」ということだった。しかし、その後、ネガティブな説明が続いた。リンパ節転移の有無については、詳しく調べなければわからない。3、4箇所以上になれば手術しても、再発の可能性は50%を越える。再発した場合の予後は良くない。処置の出来ないケースもある。何よりもショックだったのはすぐには入院できないことだった。ベッドに空きがないので、一ヵ月半ほど待たねばならないという。「とても待てない」と思った。 「他にすぐ入院できるいい病院はないんでしょうか?」 私のこの無茶な問いにK先生は「うーん」と困った顔をして言いよどんだが、結局こう続けた。 「あと一ヶ月ほどで手術が出来なくなるほど進行するとも思われないし、この程度の待ち時間はうちでは普通なんです。それでも、よそに比べてうちの治療成績が悪いということはないんですよ」 私はこの控えめな言葉の中に自信を感じた。結局その日のうちに入院申し込みをして、各種の手術前検査を外来で始めることになった。 自分の体の中で刻一刻とがん細胞が増殖を続けているというのに、何の打つ手もなく病院のベッドが空くのを待っているというのは言いようのない苦痛だった。今すぐ手術をすれば助かるかもしれない。しかし、明日にでも致命的な転移が肺や、肝臓や、周辺のリンパ節に起こるかもしれない。無数のがん細胞が食道の病巣から剥がれ落ちて、血流に乗って全身へ運ばれてゆくイメージが頭にこびりついて去らなかった。何かできることはないのか? こういう立場に立って始めて、巷の新聞、雑誌には「ガンがきえた!」タイプの広告が氾濫していることに気づいた。伝統的な漢方薬から、なにやら怪しげな植物、動物からの抽出物まで千差万別だ。どの広告にも、まことしやかに「死の淵からの生還」例が紹介されている。私は基本的にこの手の類の代替療法には懐疑的だ。すべてがでっち上げだとは言わないけれど、もしこういうものが本当に高い確率で効くのなら、今ごろ世界中が大騒ぎになっているはずだからだ。感染症に対して、ペニシリンが登場してきた時のことを考えたらいい。ただ、実に歯切れの悪い言い方だが、「特定のケースに対してある一定の効果はあるかもしれない」くらいに思っている。特に、漢方薬についてはそれこそ「中国3千年の歴史」にわたるランダムスクリーニングの成果が盛り込まれているはずだ。情けない話ではあるが、結局、私もこの手の怪しげな薬を大量に買い入れることになった。とは言っても、その大部分は家族のものが漢方薬店で薦められるままに買ってきたものだが。下にいくつか紹介する。 漢方薬:各種薬草の類。せんじて飲む。これはオックスフォードの漢方医、ズー先生に処方してもらったもの。私はこれを「ズー茶」と称して、四六時中すすっていた。タヒボ:これはブラジル産の樹木茶。含有成分、ナフトフランジオン(NFD)に抗癌作用があるという。β-グルカン:錠剤。免疫賦活作用があるらしい。きのこからの抽出物。秘伝極意:情けないネーミングのペースト状の薬。何かの植物を醗酵させたものだが、能書きは忘れてしまった。にんじんジュース:β-カロチンは抗酸化剤。ガンの予防に良い。 そういえば、成人病センターの外科外来待合室でも、なにやらお茶のようなものを水筒に入れて、チビチビと飲んでいる人を何人も見かけた。「溺れるものは藁をも掴む」というが、「藁を掴」んだまま水面下に没してしまった人のなんと多いことか。ちなみに、私の場合、これらの薬を飲み始めたからといって、食道の病巣が縮小する、あるいは拡大が止る、といったことはまったくなかった。それは明らかに大きくなっていた。日に日に困難になる食べ物の飲み下しがそのことをはっきりと私に告げていた。 突然ガンを宣告された身とはいえ、私にとって入院を待つ間はそれこそ降ってわいたような自由な時間だった。会社には長期休職する旨、伝えてあった。食事の時の苦労以外、特に体調が悪いわけでもない。胸の疼痛も病院でもらったインドメタシンの座薬を使っていれば何とかごまかせた。成人病センターへは週に一度か二度通って術前検査を受けた。血液、尿、便、腹部・胸部のCT、腹部エコー、心肺機能、眼底検査と、少しづつノルマをこなしていった。 検査のない日は大阪の街をぶらぶらしたり、ギターを弾いたりして過ごした。私は趣味でクラシックギターを弾く。大学時代はマンドリンオーケストラのギターパートに在籍して、ずいぶん一生懸命練習したものだが、就職してからはまとまった練習をする時間も、気力もなく、ギターの弦も錆付き気味だった。 大阪駅前のササヤ書店へ行って、前からほしかった武満徹編曲の「12の歌」の楽譜を買ってきた。誰もが知っている日本の歌や、ビートルズナンバーをギター独奏用に編んだものだが、武満らしい繊細で美しい編曲だ。この曲集は大学時代に荘村清志のレコードでよく聴いたものだ。技術的には決して易しくない。特に大きなストレッチを必要とする左手の押弦には難渋する。比較的易しい「ロンドンデリーの歌」と「オーバー・ザ・レインボー」から練習を始めた。シンプルな曲だがなかなかうまく弾けない。新しい曲に疲れたら、「アルハンブラの思い出」や「魔笛の主題による変奏曲」など、古くからのレパートリーをさらってみる。練習しているうちに、まだまだ弾きたい曲が山のように残っていることを思い出した。もし、このガンが治ったら、またギターを弾こう。ロンドンデリーの歌も、オーバー・ザ・レインボーも、入院の日が決まるころには大方仕上がっていた。 九月も末になったころ、K先生から手術前検査の結果の説明を受けた。先生は相変わらず穏やかな表情で、CTの断層写真のフィルムを一枚、一枚、壁に貼り付けていった。そのうちの何枚かに黄色い付箋のようなものでマークがつけてある。いやな予感がした。 「これが食道の病巣です」 先生は断層写真の中央を指差した。食道の壁が大きく膨らんで肉厚になり、中央の空洞は点のようだ。これでは、食べ物が通らないはずだ。先生はさらに、マークのついたところを指差すと続けた。 「このリンパ節なんやけど、大きく腫れていて、転移やと思います。それから、ここにももう一つ」 リンパ節転移だと思われる炎症は首と胸の二ヶ所にあった。リンパ節は通常紡錘型で、細長い形をしている。ガンが転移して、増殖を始めると腫れたように見え、形も丸くなってくる。 「まだ小さなものもあるかもしれませんが、それはあけて見なくては(手術してみなくては)わかりません」 「これが、三ヶ所も、四ヶ所も転移があるということになると、手術しても再発してくることのほうが多くなります」 リンパ節転移のないうちに手術をした場合の食道ガンの五年生存率は80%に達する(国立がんセンターの統計)。しかし、転移のあった場合には大きく低下する。病院にもよるだろうが、食道ガン全体では20−30%くらいのようだ。一概には言えないが、再発した場合のガンの進行は速く、通常余命は半年程度、一年以上生きる人は少ない。以前のCTでは転移は認められなかったから、自分では五分五分以上の勝算はあるつもりでいた。統計から考えれば、助かる確立は30−40%くらいか? いやでも、自分で大雑把な数字をはじき出してしまう。 十月になった。一週間ほど前から朝起きると妙に体がだるい。熱が38度近くまで上がることもある。風邪でもひいたのだろうか。インダシンの座薬を入れると、うそのように熱が下がり楽になった。そうこうしているうちに、のども痛み始めた。耳鼻咽喉科で鼻からカメラを入れて調べてもらったが、特に異常はなかった。どうやらこれはガンそのものの症状らしい。後になって聴いたが、こういうふうに体がガンに対して強い反応を示すのは良いサインだそうだ。ガンに対して体の免疫システムが強く抵抗している証拠だからだ。 胸の疼痛はかなりひどくなった。もう、一日に3回インダシンを使わなければ我慢できない。座薬を常用するものだから痔も悪くなってきた。痒くて仕方がない。クリーム状の痔の薬を座薬に塗りたくっておしりの穴に押し込んでやると幾分ましになった。このころまで食事はごく普通のものを食べていたが、次第に食べているというよりは、お茶で胃の中に流し込んでいるという状態になってきた。液体なしにはもう何も飲み下せない。少しの食べ物を口に入れては、良く噛んで、少しのお茶を口に含み、勇気を出して飲み込む。錠剤の薬を飲む要領だ。ひと口、ひと口がこんな感じだから、食事に時間がかかって仕方がない。注意していても、一回の食事中に3、4回はつまらせてしまう。慌ててトイレへ行ってのどの上部に詰まったものを吐き出す。このままでは食道の細くなったところはつまったままだから、ここにつまったものをお茶で流し下す。水を口に含んで、ぐっと飲み込むと、食道の狭窄部に圧力がかかるのがわかる。すると、のどに弱い痛みが走り、つまった食べ物が胃の中に勢いよく飛び出してゆく。ちょうど子供のころ遊んだ竹筒の空気鉄砲のようだ。ピストンを押し込んでいくと、筒の中の圧力が上がって、筒の先に詰めた濡れたちり紙を丸めた弾がポンと飛び出す。「もう、おかゆしか食べられないな」そう思い始めたころ、成人病センターから「ベッドが空いて入院できるようになった」との連絡を受け取った。
成人病センターへ入院したのは10月9日の木曜日だった。病院からもらった案内のとおり、タオルや、吸い飲みや、腹帯などと、身の回りの物をかばんに詰めて、妻と二人でセンターへ向かった。私はこれまで病気らしい病気をしたことがなかったから、病院に入院するのはこれが初めてだった。何もかもが目新しい。11階の北病棟の看護婦詰め所へ行って、病室へ案内してもらった。11階は外科病棟、手術を待つ人、手術を終えて回復中の人が入院している。患者のほとんどはガンだ。病室は4人部屋で、思ったより広かった。窓側のベッドとロッカーを与えられ、荷物の整理をしてパジャマに着替えた。これで立派な入院患者だ。 隣のベッドにはNさんがいた。私と同じく今日入院してきた人だ。50代前半だろうか。「同期の桜。よろしくお願いします」 と声をかけられた。「いえ、こちらこそよろしく」こんな挨拶を交わした。NさんはC型肝炎から肝硬変を経て、肝がんを発症していた。そのわりには元気そうで、顔色もいい。とても病気には見えない。左向かいには、Tさん。彼は大腸がんの手術を終えたばかりだった。真向かいは、Sさん。この人は私と同じ食道ガンだ。Sさんの食道は完全に詰まってしまって液体も通らない。もう、一ヶ月も点滴だけで暮らしているそうだ。 夕方になって主治医のY先生が現れた。私の顔を見るなり、「若いなあ!」と大きな声をあげた。実は私も同じことを考えていた。実際、Y先生は私より三つほど年下だったのだ。食道ガンは50代以上の男性に多いガンで、そのピークは60代。男性と女性の比は4-5:1程度だ。私のような30代(当時38歳)の患者はまれなようだ。このY先生と、外来でお世話になったK先生が当時の成人病センターの食道チームだった。食道の手術は必ず二人のペアで行うという。Y先生は気さくな人だった。雑談を交えながら手術の予定を説明してくれた。手術は一週間後の10月16日と決まった。 11階の病室の窓からは大阪城公園がよく見えた。窓の下にはJR環状線が走る。森ノ宮駅から北へ向かって線路沿いに目を走らせて行くと大阪城公園駅だ。その奥には大阪城の天守閣。夜にはライトアップされて、緑青をふいた屋根と、白い漆喰の壁がネオンの明かりでかすんだ大阪の夜空に浮かび上がる。後ろには、高層ビルの立ち並ぶ大阪ビジネスパークが見える。その上をかすめるように、伊丹空港へ向かう飛行機が高度を下げてゆく。夕食を終えて妻が帰ってから、ビルの陰に消えてゆく飛行機のライトをながめながら、ベッドの上で私は自分の行く末を考えていた。 ガンになって始めて自分が死ぬということの意味を真剣に考えた。意識がないと言う意味では眠りはきわめて死に近い。言ってみれば、眠りは死の親戚だ。だから人が死ぬと「永眠した」という。しかし、毎晩ふとんの中で眠りに落ちるのを不安に思う人は少ないだろう。「もしかしたらもう二度と目がさめないかもしれない」、そんなことを考えていたら不眠症になってしまう。決して覚めない眠りが死ならば、一体、死の何がそんなに恐ろしいのだろう。 人はこの世に生まれてきた以上、いつかはこの世から去らねばならない。どんなに長生きしても死からは逃れられない。そんなことは誰でも知っている。しかし、知ってはいても、そのことの意味を理解しているとは限らない。子供のころ、夏休みが何より楽しみだった。9月になればまた学校が始まるのはわかっている。それでも、夏休みの来るのを指折り数えて待たずにはいられなかった。そして夏の終わりにはきまって、山のようにたまった手付かずの宿題を前に悲嘆に暮れた。今の私も、小さな子供だったころの私も、たいして違わない。どちらの私も「思っていたよりも短かった夏休みの終わり」を前に、泣きべそをかいているだけではないか。 死の恐怖というのは本質的には孤独感だろう。「死ぬ」ときまったわけではないにしても、死を意識した時から私の未来を見る目はすっかり変わってしまった。後一年と少しに迫ったニューミレニアム、2002年のワールドカップ。みんな空々しいから騒ぎに思えた。「2002年という年は私にはやってこないかもしれない」と思う気持ちを止めることが出来なかった。 自分の死を想像することは難しい。自分の葬式を思い描いても、そこには必ず宙に浮いて人々を眺めている死後の自分がいる。けれども、死の後には本当は何もない。宙に浮く死後の自分もそこにはいない。それはあらゆる意味で「今、生きているこの自分」とは切り離された世界だろう。「葬式は亡くなった人のためではなく、遺された者のためにある」という誰かの言葉に強い共感を覚えた。 手術を翌日に控えて、11階北病棟の会議室でY先生から詳しい説明を受けた。机とパイプ椅子だけの倉庫のような殺風景な部屋だった。机をはさんで私と妻、Y先生が向かい合うように座った。先生の背後の壁にはX線フィルムを貼るシャーカステンがあった。Y先生は手馴れた様子で、紙に人の上半身の図を描いて説明を始めた。 「食道の手術は消化器の手術としては最も規模の大きなもので、心臓や肺への負担も大きい手術です。残念ながら、手術が直接の原因で亡くなる人も数パーセント程度はあります」 「手術では胸と腹と首を同時に切開します。首はちょうどシャツの襟で隠れるあたりのところを開きます」 「食道は鎖骨のあたりから胃の上部まですべて切除します。胃は細く管状に加工して首のところまで引っ張り上げて、食道の残った部分とつなぎあわせます」注) 「手術の際は視野を確保するために一時肺をしぼませて小さくしてやる必要があります。あまり長い間しぼませていると、肺へのダメージが大きすぎるので、しばらく作業をしたら膨らませて、少し休んで、またしぼませる、ということを繰り返しながら手術してゆきます」 「それでも、肺へのダメージは避けられません。手術後に肺炎を起こす可能性も高いのです。術後は痰を頻繁に取り除いて肺をクリアにし、合併症を防いでゆく必要があります。」 「ガンが食道を突き破って周辺の組織に達している場合、問題になるのが気管支と大動脈への浸潤です。大動脈が侵されている場合、その部分を人工血管で置き換える作業が必要になります。その場合、手術時間が長くなりすぎるので、胃を使った食道の再建を同時に行うことは出来ません。その場合、2-3週間あけて、二度目の手術が必要になります。」 「再建する食道は気管支の下を通るもとのルートではなくて、胸の中の浅いところ、心臓の上、胸骨の下を通るようにします。これは食道と胃の吻合部分がほころびた場合の処置を容易にするためです。」 「半回神経という声帯をコントロールしている神経の通る部分に入り込んだリンパ節を切除する作業では、この神経をいためてしまう可能性があります。場合によっては声がでなくなってしまうこともあります。」 「手術後は10キロ以上体重が落ちるのが普通です。若干は戻りますが、すっかり元のようにはなりません。体力的には今までの自分とは別人になるものと思ってください。」 とても詳しい説明だった。また、Y先生は私のかなり突っ込んだ質問にも丁寧に答えてくれた。説明の内容は厳しかったが、この人なら信頼できると思った。 「大変な手術ですが、気合を入れて臨みますのでよろしくおねがいします」私がそういうと、先生も「私も気合を入れて、手術させていただきます」といって笑った。 この手術内容を聞けば「何とか切らずに済ます方法はなかったのか」と考えるのは当然だろう。しかし、この時点ではリンパ転移が認められたから、私のガンのステージは4段階の3期。ガンの大きさは10cm弱もあり、その上、発熱、疼痛、嚥下困難などの激しい自覚症状があった。抗がん剤と放射線を併用する集学的治療の対象になるとは思われなかった。
手術前の状態 手術後の状態 注)手術前の状態と、手術後の状態を図示しておきました。このサイトの名前がなぜ「のどの下の胃ぶくろ」なのか一目瞭然です。 11階北病棟のスタッフは明るい気持ちのいい人ばかりだった。看護婦は若い人が多くて、みんな元気がいい。すぐに名前を覚えて、世間話をするようになった。イギリスからの入院患者というのも珍しかったのだろう。皆、忙しい仕事の合間に話し相手になってくれたのはありがたかった。特に、主任のUさんには、相当にまいっていた妻の相談相手になっていただいた。彼女たちの献身的な働きぶりには本当に頭が下がった。手術の4日ほど前に、点滴用 (中心静脈栄養) の管を鎖骨のあたりから胸部の大静脈へ入れる作業があった。こうしておけば、かなり濃厚な高栄養の点滴も血管をいためることなく投与できる。長期間、口からの食物の摂取が出来なくなることに備えるのだ。腕からの点滴と違って、両手が使えるので便利でもある。Y先生は局所麻酔をすると、千枚通しのようなものを使って私の首の下あたりをしばらくゴリゴリやっていた。あまり痛くはなかったが、ずいぶん大胆な作業だと思った。十分ほどで作業は終わり、管にはとりあえず生理食塩水の点滴がつながれた。これを車のついた点滴台に吊るしてごろごろ押して歩く。一人前の病人になった気分だ。 手術の二日前から絶食した。下腹部の毛剃りもすませた。看護婦さんに剃ってもらったのだが、さして恥ずかしくもなかった。何しろ入院したその日から痛み止めの座薬を入れてもらうのに、パンツを下ろしておしり穴を若い娘の前に突き出さねばならなかったのだ。病院というのは、ある意味で日常の世の中の常識を離れた別世界だ。つまらぬ羞恥心などさっさと捨ててしまうのが、快適に暮らすためのコツだと観念した。 手術の前日になった。「日本に暮らしていたら、こんな回り道をすることなく、8月のうちに、遅くとも九月中には手術出来たろう」と思わないことはない。けれども告知以来、今日までの二ヵ月半を思えば「やっとここまでこぎつけた」という安堵の思いがまさった。明日は明日の風が吹くだろう。不思議と手術中に起こるかもしれない色々なトラブルのことはあまり気にならなかった。寝る前には精神安定剤をもらって飲んだ。何も考えずにすんなりと眠りに落ちた。
手術の日の朝は5時半に目覚めた。ちょうど痛み止めの切れてくる時間だ。痛みと熱の出てくる前に座薬を使った。7時ごろになって浣腸をした。胃腸の大掃除の総仕上げだ。トイレで出したものは看護婦に見てもらい、腸の洗浄が出来ていることを確認する。その後は妻と雑談をして過ごした。窓の外は10月とは思えない日差しだ。今年は暖かな冬になりそうだ。 8時半ころに看護婦がストレッチャーを押してやってきた。下着を脱いで、後ろ開きのガウン一枚に着替えて、沈静剤の注射をしてもらう。「じゃあ、言ってきます」と妻に言うと、ストレッチャーに横になった。看護婦が毛布をかけてくれる。ゴロゴロと押されて、エレベーターの前へ。最後に、妻に軽く手を振った。めがねを外しているので、彼女の表情はわからない。エレベーターはそのまま手術室のある三階へ降りてゆく。曲がりくねった廊下を進んでゆくと、突然広く明るい部屋に出た。手術室だ。 「おはようございます」と、麻酔医のT先生がやってきた。「よろしくお願いします」と私。まず、横向きになって硬膜外麻酔のチューブを脊椎骨の間に入れる作業を済ませた。この方法が普及したおかげで、術後の痛みはずいぶん軽減されたそうだ。作業が終わると、再び仰向けになって麻酔の静脈注射をした。手術は当然全身麻酔で行われるから、これは人工呼吸器をつないだりするための予備的な麻酔なのだろう。ここで意識がスッと遠のいた。 夢も何も見ない、まったくの空白の時間が過ぎた。 強い息苦しさを感じて目覚めた。まわりに人の気配がした。手術は終わったのだ。今いるのは回復室のはず。口は半開きで、のどに強い違和感がある。ああ、まだ気管にチューブが入っているのだ。人工呼吸器の動く「シュー、シュー」という単調な音が聞こえる。それにあわせて私の胸がかすかに上下する。信じられないくらい浅い呼吸だ。苦しい。窒息の恐怖から、思わず大きく息をしようとあせったが、どうすることも出来ない。自分の意志では呼吸をコントロールできないのだ。「息が出来ない。窒息する!」とひとしきりもがいたが、意識が遠のいてゆく気配もない。どうやらこれでも最低限の呼吸は出来ているらしい。これでは拷問だ。「息が苦しい。息が苦しい」これを念仏のように頭の中で唱えながら、意識のはっきりしないまま横たわっていた。ふと、気がつくと、誰かが私に話しかけている。 「二時ごろになったら、チューブを抜きますからね。そうしたら、自分の力で息をするのがこんなに気持ちええんか、と思いますよ」 二時と言われても、大体今が何時だかわからない。とにかく、早く楽に息をさせてくれ。幸い呼吸が苦しい意外は、特に痛みはない。ただ、全身が棒になったようにこわばっている。首もろくに動かせないので、目だけを動かしてまわりを見回す。広い部屋のようだ。ベッドのまわりをおびただしい数の機械類が取り巻いている。若い男の医師と女の医師が、入れ替わり様子を見にやってくる。自発呼吸の強さを確認しているのだろうか。長い時間がたったように思った。突然、まわりが騒がしくなったかと思うと、声がした。 「では、チューブを抜きますよ」 ああ、これで楽になる。のどの奥に不快な感触を残して、ずるずるとチューブが引き抜かれてゆく。チューブの端がのどを通るとき強い吐き気を覚えたがそれは一瞬のことだった。のどの異物感は消えた。「さあ、思い切り空気を吸おう」そう思って、口を開いて愕然とした。ほんの少しの空気を吸い込んだかと思うと、もうそれ以上、肺はぴくりとも動かないのだ。まるで、胸の上に漬物石でも載せられたようだ。これでは人工呼吸器をつけていたときと何も違わない。このとき初めて、手術による肺へのダメージの大きさを実感した。息は相変わらず恐ろしく浅い。水面でパクパクと口を動かす酸欠の金魚になったような気がした。麻酔が覚めてくるにしたがって、まわりの様子がわかるようになってきた。私の左隣のベッドには年配の女性がいるようだ。 「おばあちゃん。今日は何年の、何月何日かわかりますか?」 「アー、○月×日?」 しばらくすると、女の人が二人やってきて、色々と世話を焼いてくれた。背中の下へ手を入れて、マッサージをしてくれる。これはありがたかった。「しんどいけど、もうちょっとで病室へ帰れるからなあ」などと声をかけてくれる。何か言おうとして、口を開いてまた驚いた。声がほとんど出ないのだ。しわがれた、かすかな雑音がのどから搾り出されてくるが、声にはならない。Y先生の言っていたとおりだ。「喋らんでええんやよ」とおばちゃんたち。一方の人が、手相を見てやろうという。私の手をとってしげしげとながめている。 「兄ちゃんは、ええ子になろうとして無理をし過ぎや。無理することはない。自分に正直になったらええんやで」 一体、私は今まで自分を偽ってきただろうか? 他人によく見られようとして? 呼吸困難、半麻酔状態の今の私にとっては、なんとも荷の重い問いではないか。とりあえず、「無理をするな」というアドバイスだけを採用させていただく。何しろ今の状態では、ただ寝ているだけで精一杯。無理も何もあったものではない。 元気のいい、耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。11階北病棟の看護婦たちだ。彼女たちは「せーの」という掛け声とともに、私を別のベッドへ移すと「いだだいて帰ります」の声とともに、あっという間に11階へ連れ戻した。今度は大部屋ではなく、回復用の個室へ入った。8畳くらいの広さだろうか。トイレはないが、洗面台がある。 呼吸はあいかわらず浅いが、いくぶん楽になった。電動式のベッドの背を起こしてあるので、自分の体が良く見える。腹は腹帯でぐるぐる巻きになっている。右胸と首は大きなガーゼで覆われている。さらによく見ると、体にやたらとチューブがつながっている。チューブは胸に二本、腹に一本、1cmくらいの茶色の太いものがつながれている。これらは全部ドレインで、傷から出る体液を体の外へ流し出すためのものだ。胸のドレインにはポンプがつながっていて、ポコポコと音を立てている。熱帯魚の水槽のようだ。胸腔内をやや減圧にして、肺がしぼんでしまうのを防いでいるのだ。鼻の穴には、食道用のドレインの細い透明なチューブが入っている。ペニスには排尿用の管。胸の点滴を合わせて、合計六本だ。これに酸素吸入用のマスクと、心電図用の電極とコードが加わるのだからスパゲティー状態とはよく言ったものだ。病室へ戻ってしばらくして、妻と家族に再会した。妻は私の手をとって、「心配したんだよ」と涙ぐんだ。私の目頭も熱くなった。手術の翌日の夕方のことだった。 その後、Y先生が様子を見に来てくれた。手術は特別な問題もなく、順調に進んだが、それでも11時間ほどかかったそうだ。出血は少なく、輸血はしないですんだということだった。 「食道の一部が炎症のため、肺からはがれ難くなっていたところがあったので、肺の一部、小指の先くらいを切除しましたが、浸潤はしていなかったと思います」 気になった先生のコメントはこれくらいだった。とりあえずは、手術成功といっていいのだろう。 病室へ戻った直後はさほど苦しいとも思わなかった。痛みは鎮痛剤と硬膜外麻酔でほぼ完全にコントロールされているようだ。特に痛いところはない。しかし、時間がたつにつれて徐々に苦しさが増してきた。とにかく、深く息が出来ないのがつらい。無理に深呼吸をしようとすると、喘息の発作を起こしたようになる。「ひー、ひー」と情けない音を立てて、激しく息をしようとするが苦しさはなくならない。過換気といって、肺胞中の二酸化炭素濃度が低くなりすぎているのだ。深く息をしようとすれば、するほど苦しくなる。「むしろ、ゆっくり息をしたほうがいいですよ」と先生がアドバイスしてくれるが、窒息しそうなほど息の苦しいときに、敢えてゆっくり息をするというのは、大変勇気のいることだった。肺の状態が回復してくるまで、私はしょっちゅうこの「ひー、ひー」を繰り返していた。 少し気分がよくなると、ベッドの背を立てて、外の景色でも見ようと上半身を起こしてみた。ベッドは電動式だ。ボタンを押すと、ゆっくり背が持ち上がってゆく。とたんに、激しいめまいに襲われた。部屋が回る。自分の頭も回る。動悸が激しくなって、額から汗が吹き出した。ただの30秒も我慢できなかった。あわてて、ベッドの背をもとの位置、25度くらいに戻す。荒い息をしながら、また世界が静止するのを待った。「体を起こすこともできないのか」と思うと愕然とした。 ただ、じっとベッドの上に横になっていた。長い、長い午後だった。ようやく日が傾いて、大阪の街にネオンの明かりがともった。7時だった。私はあいかわらずベッドの上で天井を見つめている。また、長い時間がたったように思った。再び時計を見ると、7時5分だ。自分の目を疑った。時間の感覚が完全に狂っている。時計の針が前へ進んでゆかない。気がつくと胸と腹が火のついたように熱い。口につけた酸素マスクのプラスチックの匂いが不快だ。ふりはらって見たが、外せば外したで苦しい。高熱にうなされているように、意識がにごってくる。もう、8時になったろうか。時計に目をやると、7時10分だ。 目を閉じると、不思議なイメージが頭の中に浮かび上がってきた。告知から今までのこと、子供のころ住んでいた家の事、昔見た夢、まるで紙芝居を見るように目の前を流れてゆく。そのすべてに、すばらしく鮮やかな、そして毒々しい色がついている。吐きそうなくらいの、色の洪水だった。突然、その視覚のイメージが去ると、今度は頭の中に言葉が湧きあがってくる。「元気になったらこの経験を何かの形に書き留めて置こう」そう思ったとたんにバケツをひっくり返したように頭の中に文章が流れ込んでくる。朗読のテープをはや回しに聞いているようだ。その気違いじみた勢いに、私は完全に圧倒されてしまった。一体俺の頭は、どうなってしまったんだろう。言葉のこん棒でのべつ幕なしに殴りつけられているような気がした。もう、いいかげんにしてくれ。助けを求めるように時計に目をやると、7時15分だ。絶望的な気持ちになった。それでも、無限の時間がたったように思ったころ、消灯の九時半になった。看護婦が睡眠導入剤を点滴してくれた。頭の中が、すっと静かになったかと思うと眠りに落ちた。 Y先生によれば、食道がんの手術の後に幻想や幻覚を見る人は結構多いそうだ。錯乱して、看護婦に殴りかかる人や、珍しいところでは「赤紙がきたのでこれから戦地へ行く」といって聞かないおじいさんなんかもいたそうだ。 どれくらいの間眠っていたのだろう。息苦しさと、腹と首に燃えるような熱さを感じて目がさめた。11時だった。1時間半しかたっていない。あの悪夢のようなイメージは依然として頭の中を全速力で走り回っている。Y先生は「最初の3-4日は苦しいですよ」と言っていたから、後3日の辛抱か。とりあえず、朝になれば少しは楽になるだろう。しかし、本当に朝は来るのか? もちろん、朝はやってきた。しかし、白日夢のような混乱と、体の内側から炭火焼きされるような苦しさは去らなかった。これは、手術後一週間ほど続いた。この間、私はあいかわらず「ひー、ひー」と発作をおこし、ベッドの上に起き上がってみては数分ももたずにひっくり返った。夜は、睡眠導入剤で二時間ほど眠るだけ。それでも、昼間は妻も看護婦もいるので気がまぎれた。声を出すのはまだまだ苦しかったが、二言三言喋っては深呼吸をして、何とかコミュニケーションをとることは出来た。妻は、私のしわがれ声を「森進一そっくりだ」と笑った。私も、元気のある時は「おふくろさん」の出だしを真似してみては、発作をおこしてあきれられた。 手術直後の一週間はおおむねずっとこんな感じだった。テレビや漫画を見ようと思ったが、まったく集中力がなく何も頭に入ってこなかった。「もう、治らなくてもいい。早く楽になりたい」そう思うことさえあった。苦しさには波があって、具合の悪いときは人目もはばからず泣き叫びたいほどだった。実際、泣き叫んだのだが、ろくに声も出ない状態なので誰も叫んでいるとは思わなかったようだ。さぞ、我慢強い患者に見えたろう。 それでも、3、4日目になって、鼻に入れたチューブをとってもらうと、100以上あった心拍数がすとんと90程度に下がった。のどのあたりがよほどすっきりした。そして、もう決してやって来ないのではないかとさえ思えた1週間目の朝を迎えると、すうっと体が楽になった。今まで私の体の中でうごめいていた無数の小虫が、それこそ蜘蛛の子を散らすように消えてしまったように感じた。まだ、体を起こせば頭から血の気が退いて失神しそうだが、静かに横になっている分には大丈夫だ。「回復しよう。元気になろう」という気力が湧き上がってきた。 手術後はほとんど毎日のように胸のレントゲン写真を撮った。最初は空気の抜けた風船のように力なく見えた私の肺も、胸に溜まった体液の排出が進むにつれて元気を取り戻してゆくのがよくわかった。肺の端の縮んだ部分が少しずつ膨らんでゆく。ドレイン溜めのゲージを見ると、腹のドレインから出る体液も少なくなっている。 体が少し楽になると、早速Y先生がやってきて「そろそろ歩いて見ましょうか」と私にリハビリ開始を告げた。「まだ無理ですよ」と言おうとして、思いとどまった。はなはだ自信はなかったが、おめおめと退き下がるのも癪だった。覚悟を決めて、ベッドのリモコンのスイッチを押した。背が起き上がって行くにつれて、頭から血の気が退いてゆくのに耐えた。おおむね起き上がったところで、スイッチを切り、少し前かがみになるようにして完全に上半身を起こした。少しふらっとしたが、大丈夫なようだ。1週間ぶりに、世界は私の前に正立している。窓の外に目をやると、生駒山が見えた。山際にはテレビ塔の群れ。 「あの山の上には遊園地があったんだったかな」 小学校のころの遠足を思い出した。体を回転させて、ベッドに横座りになると、そのまま、そろそろとサンダルの上へ足を下ろした。立ち上がった。「何だ、立てるじゃないか」しかし、額が汗ばんでいる。私がベッドに腰を下ろそうとするより一瞬早く、妻の声がした。 「せっかく立ったんだから、少し病室の外を歩いてみようよ」 まんまと先生と妻のペースにはまって追い詰められた。少しためらったが、手を引いてもらって点滴台にすがるようにして、足を踏み出した。 「うん、歩けそうだな」 そろり、そろりと進んで廊下へ出た。ゆっくり、ゆっくり進んでゆく。廊下の端のナースステーションまで来ると、しばらく顔を見なかった看護婦たちが手を振ってくれた。エレベーターの前まで行ってUターン。病室へ戻ってベッドに横になるころには、大きく肩で息をしていた。全身から汗が吹き出したが、さわやかな気持ちだった。ほんの2、30メートルの距離だったが、大冒険だった。 手術後二週間目に入ると、少しずつ体からチューブが取れていった。立って歩けるようになったので、病室に簡易トイレを持ってきてもらった。これで、紙おむつともお別れだ。口からものを摂らなくとも多少の便はでるから、これまでは看護婦の手を煩わせて、ベッドの上でゴム製の浮き輪のような便器を使って排便せざるをえなかった。普通のパンツをはいてパジャマに着替えると、魔法が解けてカエルから人の姿に戻った王子様のような気分だ。自分で自分の下の世話ができるということは、些細なことのようで人の尊厳にかかわる重大事だ。 それでも体を起こして便器に座るまでには、めまいを堪えながら優に5分はかかった。毎回、間に合うかどうか冷や汗ものだ。気分が良くなってくると、少しは新聞を読んだり、音楽を聴いたり出来るようになった。持ち込んだCDプレイヤーでよく聴いていたのは、フォーレの「レクイエム」と、ハーブ・オオタの「マジカル・ウクレレ」というアルバムだ。四年後の今でも、オオタさんの弾く「ハワイ」という曲を聞くと、あのときの病室の様子がありありと目に浮かび、かすかに消毒液の匂いすら漂ってくるような気がする。 手術後10日ほどたったある日の午後、Y先生が病室へ現れた。手術の際に切除したリンパ節の組織検査の結果を知らせにきてくれたのだ。 「それが、あらへんねん」と、Y先生。 病理から戻ってきた結果によると、合計100以上のサンプル中、異常細胞の数はゼロだったのだ。リンパ節転移は確認できなかった、ということだ。 「あれだけ大きな病巣やったんで、普通は少なくとも2−3ヶ所は転移があるもんやねんけど」 「顕微鏡で検査するためにスライスしたサンプルの中に、たまたまガンの細胞が含まれていなかった、ということはあり得るけど、100以上のサンプルからひとつも出て来ないというのはちょっと考えにくい」 「強い免疫反応があった場合には、リンパ節が大きく腫れて転移したように見えることも稀にはあるんです」 「こういう場合は、予後のいいケースが多いんですよ」 数ヶ所程度のリンパ節転移が見つかることは覚悟していたので、私はこの予想外の結果になんだか気が抜けてしまった。リンパ転移のない状態で、手術した場合の食道ガンの5年生存率は80%程度、という統計が頭に浮かんだ。「バンザイ」と叫びたくなるような、そんな喜びではなかったけれど、冷え切った腹の中にウイスキーを流し込んだときのような、体の芯の方からジワッと温められるような、そんな気持ちがした。 手術から10日ほどして、食道と胃の吻合部のレントゲンを撮ることになった。食道と胃はずいぶん違った組織から出来ていて縫い合わせてもうまく繋がらないこと(縫合不全)も多いから、これはとても重要な検査だ。レントゲン撮影のためには口から造影剤を飲まねばならない。しかし、これが容易なことではなかった。胸から首にかけては触ってみてもまだほとんど感覚のない状態だ。筋肉が引きつって、石のように硬くなっている。抜糸だってまだすんでいない。まず水で練習してみることになった。小さなぐい飲みくらいのコップに水を入れて、恐る恐る飲んでみた。普段なら自然におこるはずの「ごくっ」という嚥下反射が妙にスムースにいかない。無理に飲み下すと、水はみな気管の方へ入っていってしまった。激しく咳き込んだ。とはいっても、胸と腹に大きな傷があって、まともに咳をする力はない。弱々しく「カッ、カッ」と肺へ入った水を吐き出した。咳をする音は小さくとも、苦しさだけは一人前以上だ。 「一度しっかり息を止めて、大きくのどをゴクッと鳴らすように飲んでみるといいですよ」とY先生が教えてくれる。 再度、水を口に含み、しっかりと息を止めて、そのまま力を緩めずに、ゴクッ。今度は飲めた。わずかな量の水だったが確かにのどを流れ落ちてゆくのがわかった。 「じゃあ、もう一口飲んでみましょう」 勇気を出して、もう一口。何とかのめるようだ。ほっとした。 水での練習を終えると、X線の部屋でカメラの前に立ち、さっきの要領で小さなコップに入った造影剤を飲み下した。甘いような、苦いような、おかしな味がした。これは、新しいタイプの造影剤で、私のケースは治験だったから、事前に承諾書にサインをしていた。クリニカルトライアル初体験だ。 「きれいに繋がっていますよ」 しばらく通行止めだった私の消化管は、これで、晴れて口から肛門まで再開通ということになったわけだ。 手術からちょうど2週間たったころ、回復用の個室からもとの4人部屋へ戻った。戻ってくると、もう同室だったNさんの姿はなかった。肝臓ガンの状態が思ったより悪く、手術不能と判断されたためほかの病院へ転院したのだった。替わりに、もとのNさんのベッドにいたのはMさんだ。Mさんは6年前に手術した肝ガンが再発したのだそうだ。「出て来る(再発する)たびに、また切ってもらえば良いんですよ」と達観している。その隣にはIさん。こちらも、肝臓ガンの手術のために入院してきた人だ。「肝ガンであろうが、何であろうが、いまさら酒が止められるかえ」と、元気なおじいさんだ。かなりいけるクチらしい。私の隣のベッドにいたのは、Aさんで、この人はすい臓ガンの患者さんだ。すい臓ガンも私の食道ガンと同じく難治性のガンで、その5年生存率は20−30%ほどだ。にもかかわらず、その淡々とした態度はまるで盲腸の手術でも控えた人のようだ。入院期間中ずっと、同室の住人とその家族の方たちとは、病気の事からお互いの家族のことまであれやこれや、毎日のように世間話をして過ごした。歳の差を越えて、ガンという共通の敵が入院患者たちの間に作り出す一体感、仲間意識というものは、私の当初の予想をはるかに越えて、ほとんど感動的ですらあった。 大部屋へ戻ってくると、看護婦たちが私のところへやってくることも少なくなった。ほぼ安定した状態にまで回復したということなのだろう。確かに、風邪をひいたときのような熱っぽさと倦怠感を抑えるために、日に2回はインドメタシンの座薬を使う必要はあったが、自分でも順調回復しているように思える。しかし、状態がよいとはいってもそれは、それは「ベッドで安静にしていれば苦しくない」というだけのことだ。肺へのダメージのせいで、少しでも上体を動かすと激しく咳が出た。胸の傷が痛くて、寝返りを打つなどということは出来ない。ずっと仰向けになっているので、尻が痛くて仕方がない。尾てい骨がマットレスにあたって擦れるので、円座という小さな浮き輪のようなものを尻の下にひいてごまかした。 声は少しずつましにはなってきたが、相変わらずひどい風邪声で、二言三言話をしただけで、すぐに息が上がった。それでも、できるだけ体を動かしたほうが回復が早いといわれて、元気があれば、点滴台を押しながら病棟の廊下をそろそろと歩いた。はって歩くようなスピードだ。それを、おじいさん、おばあさんたちが楽々と追い抜いてゆく。元気なときで、67−68kg、手術直前で64kgあった体重は、59kgになっていた。しかし、本格的に体重が減少を始めるのはまだまだこれからのことだったのだ。 食事を再開する時が来た。手術からほぼ3週間がたっていた。すでに、体に残っていたチューブはほとんどすべてとれて、残るは点滴の管だけだ。順調に食事が摂れるようであれば、これも外れて、点滴台につながれた生活ともおさらばだ。食事を始めるにあたって、看護婦から分割食という方法で食べるように指示された。そのやり方は、「配膳されたら、まずおかずも含めて半分をすてる。そして、残った通常の半分の量の食事のそのまた半分を30分程度かけて食べる。そして、2時間休み、さらに残った四分の一をまた30分かけて食べる」というものだった。これを、朝、昼、晩と行うから、一日に合計6回の食事をすることになる。しみったれの私は、手付かずの食事をまず半分捨てるということが出来ず、目分量で約四分の一ずつ食べた。結局、残った半分を捨てるから同じことなのに、おかしなものだ。 最初は流動食(重湯)からスタートした。とても薄い、透き通るようなおかゆだ。元気な時であればほんの2、3分で食べてしまえる量だ。しかし、水を飲むのにも苦労している状態で、これが食べられるのか?Y先生は「おかゆの方が水よりは飲み込みやすいですよ」と励ましてくれた。半信半疑だったが、意を決して重湯を匙ですくって口に含んだ。久しぶりに、口の中に唾液のしみ出る感触を思い出した。そして、飲み込んだ。先生の言ったことは本当だった。水よりははるかに飲み込みやすい。これなら大丈夫そうだ。指示どおり、四分の一の量を30分かけて、ゆっくり、ゆっくり食べた。味はほとんど感じなかった。食事というよりは、作業といったほうがふさわしい。 食べてみて驚いた。ものを食べれば、普通は腹が膨らむ。自分の場合は、胸が膨らむのだ。いや、膨らむというよりは、胸骨の下に圧迫感を感じる。のどの下に吊り上げられた胃の存在をいやがうえにも実感させられた。食べ終えると、この圧迫感が少しずつ下へ下がってゆく。食べたものが腸へ流れてゆくのがわかった。と同時に、体中に妙なけだるさを感じた。手に力が入らない。風邪をひいて微熱のあるときのように全身が重苦しくなる。食後のショック症状だった。とても起きてはいられない。ベッドに仰向けになって、不快感の去るのを待った。食後、30分から1時間くらいが最も苦しく、2時間ほどすると楽になった。すると、もう次の食事の時間だ。これを1日に6回繰り返した。食後の不快感は、朝食のときが1番ひどく、食事を繰り返すにしたがって、回復に要する時間は短くなってゆくようだった。こんな様子だから、1日のうち、起きている時間の半分以上は食事のせいで具合が悪く、ベッドの上でひっくり返っていなくてはならなかった。 こういうわけで、大部屋への帰還を果たして以来、比較的平穏だった私の入院生活は、11月に入り、食事が始まって一変した。「1日に6回の食事を平らげること」これが生活のすべてを律していた。そして、食後には「ねずみを生きたまま飲み込んだような」不快感と戦わねばならなかった。重湯が食べられるようだったので、食事はすぐに、三分粥、5分粥に変わってゆき、それに伴ってほとんど味のついていない野菜や白身魚の煮物が加わった。それでも、少しでも食事を楽しめるようにしようと、いろいろ工夫を凝らした。味付け海苔や、磯じまんに、江戸紫。様々なふりかけや、梅干をそろえて、極端に単調なメニューに花を添えた。通常の病院食は、1500−1600kカロリー程度だろうから、その半分では800kカロリーほどにしかならない。基礎代謝をまかなうのにぎりぎりのカロリーだ。だから、食事を始めて1週間ほどして点滴の管が外され、ブドウ糖の静注が止まると、体重は見る間に落ちていった。しかし、いつまでも点滴で生きているわけにはいかない。とにかく食べなければ、回復も退院もない。結局、体重は51kgまで落ちて底を打った。これが上昇傾向に転じたのは、手術後3ヶ月経って、新年、1998年を迎えてからのことだった。 食後の不愉快な症状は、日がたつにつれて軽くなってゆき、それにつれて食べられる量も増えていったが、術前のY先生の話のとおり、決して元のとおりには戻らなかった。これが、手術の後遺症との長い付き合いの始まりだった。 入院からおよそ40日がたった。秋も深まって、11月の半ばになっていたが、あいかわらず、1日に6回の食事に追われる単調な日々が続いていた。傷口の抜糸も終わり、暑苦しかった腹帯もとれて、絆創膏でガーゼを貼り付けただけの身軽な姿になったのがうれしかった。腹の傷は胸骨の下、みぞおちの上部に始まり、へその所まで降りてくると、そこをぐるっと迂回して下腹部に続いていた。長さは30センチほどあるだろう。消毒液を塗りながら、それを見て看護婦が「電車の線路見たいやなあ」と言った。そういえば、そのとおりだ。私の体の上を走る鉄道はあと2本あって、胸の線路は右の乳首の下から斜めに肩甲骨のほうへ向かって延びている。魚のエラのように見えなくもない。こちらも30センチほどあるだろう。首の傷は鏡を使わないと、自分には見えない。胸の傷には1ヵ所だけうまくふさがらない所があって、そこだけ3センチくらい陥没したようになって開いている。その看護婦はこれを見て、今度は「ポケットみたいやなあ」と笑った。何の因果か、私は体に3本の鉄道の走る、その上、胸に作り付けのポケットまでついたおかしな生き物になってしまった。 数日前から風呂に入ることが出来るようになっていたが、この何の役にも立たないポケットのおかげで、まだゆっくり肩まで湯につかることが出来ない。しかし、濡れタオルで体を拭くだけの生活に比べれば、どれだけ快適なことか。患部をを暖めて、血行を良くすることが回復のためにも、とても有効なのだ。ただ、鏡に映った自分の体を見るのは辛かった。初めて風呂場で鏡の前に立ち服を脱いだとき、自分の目の前に立っている文字通り骨と皮だけの男が、自分自身なのだと納得するにはよほどの努力が必要だった。つい、ひと月前までの自分はどこへ行ったのか。特に、尻と足の肉がごっそりと削げ落ちていた。竹細工のような股と脛に比べ、ひざの関節だけが異様に丸く大きく見えた。否応なしに、戦時捕虜収容所の兵士たちのやせ細った姿を連想した。「10kg以上痩せる」、そう術前に説明を聞いていても、実際に痩せた自分の姿を見れば動揺を抑えられなかった。自分を情けなく思うと同時に、悔しさがこみ上げてきた。しばらく、そのまま立ちつくした。そして気が付くと、誰に話し掛ける訳でもなく、「仕方ないじゃないか」と一人つぶやいていた。 病棟の浴室はタイル張りで、一般の家庭の風呂場をひとまわり大きくした程度の広さだった。床のタイルにはヒーターが入っていて、歩くと足の裏が暖かい。久しぶりに体をゆっくりと洗い、胸のポケットのところぎりぎりまで湯につかった。体が温まるにつれて、額にうっすらと汗がにじんできた。湯の煙にかすんだ風呂場の天井を見上げながら、「しっかりと食べて、また太ればいいんだから」と、何度も、何度も、自分に言い聞かせた。 成人病センターでは入院患者が外出をするには、許可証に主治医のハンコを突いてもらわねばならない。だが、ちょっとした日用品の買い物に出かけるくらいのことは病院も大目に見てくれていた。だから、センターの近くのコンビニにはいつも「11北、山田」とか、「10南、田中」とか、自分の病棟と名前の書かれたサンダルを履いた患者たちの姿が、ちらほらと見かけられた。放射線科の患者のなかには、首や頭に黒々と幾何学模様のマーカーをつけた人もいたから、何も知らない客や店員には、さぞ気味の悪かったことだろう。少し長い距離を歩けるようになると、私も毎日のように出かけて、週刊誌や新聞を買ってきた。コンビニでは、弁当や、サンドイッチのようなあたりまえのものが、やたらとおいしそうに見えた。たまに、おなかの調子の良いときには、おにぎりなどを買ってきて病院のお粥の替わりに食べてみることもあったが、一度に半分を食べるのが精一杯だった。お菓子では、アイスクリームが食べやすく、カロリーもあって重宝した。しかし、看護婦は私がアイスを食べているのを見つけると必ず、「一個全部食べたらあかんでー」と、笑いながらも釘をさした。もちろん、言われなくとも、とても全部は食べられなかったけれど。 内科の患者で、入院生活が長くとも全身状態の良い人たちの中には、外出はコンビニにとどまらず、夜な夜な一杯ひっかけに出かける猛者もいた。外来患者や日勤の職員の帰った後や週末には、明かりの消えた薄暗い地下の売店の横のベンチで、こうした入院のベテランたちのおかしくて、少し悲しい武勇伝が披露された。「昨日は天六(天神橋筋六丁目)で串かつ食うて来たった」などと誇らしげに話す彼らのことを誰も不謹慎だと非難など出来ないだろう。再発と入院を繰り返す彼らの多くは、治る見込みのない病を患っていた。同じがん患者でも、外科手術が出来て、完治に一縷の望みをつなぐ事の出来る外科病棟の患者たちとは一線を画す。そして、彼らはそのことを十分に承知していた。 一度だけ正式に外出許可をもらって、よく晴れた日の夕方に、森之宮あたりの散歩に出かけたことがある。久しぶりに、入院してきたときにはいていたズボンに足を通すと、ウエストの周りには握りこぶしがたっぷり二つ分の隙間が出来た。病院を出てJRの森之宮駅まで歩いて角を曲がると、外来で検査に来ていたころによく来た喫茶店に入った。店内に流れる音楽は決してうるさいというほどではなかったけれど、水を持ってきたウェイトレスに「ホットコーヒー」と言うのに、しわがれた声を振り絞らなければならなかった。コーヒーの運ばれてくるのを待つ間に尻が痛くなった。クッションのない、カントリー調の木の椅子に尻の骨があたってゴリゴリ音がするような気がした。コーヒーにはミルクと砂糖をたっぷりと入れた。以前はコーヒーは必ずブラックだったけれど、今は口に入れるものにカロリーがないことが、とてももったいなく思えるのだった。コーヒーを、そろりそろりとすすり、新聞を読んで、週刊誌をながめて、店を出た。人たちがせわしなく早足で行き交う夕暮れの雑踏の中を、ゆっくり、ゆっくり、病院へ向かって歩いた。頬にあたる風もずいぶん冷たくなった。12月が近づいて来ていた。 退院の日が決まった。1週間後の11月30日、日曜日だ。食事はまだ7分粥だったが、胸の傷に出来たポケットはふさがった。退院に備えて胸と腹のCTを撮った。今後、再発の有無をチェックしてゆくときに比較検討するための写真だ。場合によっては、この時点でもう再発の見つかってしまう人もいる。だから、これは私にとっては術後最初のハードルだったが、CTの画像には何の異常も認められなかった。 退院までには、もうひとつやっておかなければならない作業があった。それは食道ブジーだ。食道と胃管をつないだ部分は吻合部といって、針と糸で縫い合わせてあるように思うけれど、実際の手術では、2つの管の末端を内側へ折り曲げて、のり代のようにして合わせ、そこをホッチキスの親玉のような自動吻合器でガチャンと止めるのだそうだ。この部分は傷が治ってくるにしたがって肉が盛り上がって開口部が狭くなってくる。ほっておくと、物が飲み込めなくなってしまうので、術後は何回かこの部分を押し広げる作業をして食べ物の通り道を確保しなくてはならない。人によって差があるのだが、おおむね、術後1−2年のうちに3、4回も行えば、ほぼ安定した状態になって、もうこの作業は不要になるのだ。 ブジーは外来の患者に混じって、五階の内視鏡検査室で行った。いつものように廊下のベンチに座って待っていると名前を呼ばれて、看護婦が血圧をチェックしてから、痛み止めの注射をしてくれた。この皮下注射がいつもとても痛いのだ。廊下とはカーテンで仕切られただけの検査室に入ると、作業をしてくれるのはY先生だった。のどに麻酔のスプレーをして、左肩を下にしてベッドに横になった。まずは通常の内視鏡検査をした。プラスチックのマウスピースをくわえ、先生の「入りますよー」という声にあわせて胃カメラのチューブをごくりと飲み込んだ。だいぶコツを覚えたのでスムースに入ったが、何度やっても気持ちのいいものではない。手術直前には食道がつまってしまって狭窄部より奥へはカメラを入れることが出来なかったが、今ではすんなりと胃の奥まで入ってゆく。ガンの取り除かれたことが実感できた。 検査が終わると、胃の中にガイドワイヤーを残してカメラが引き抜かれた。そしていよいよブジーの始まりだ。Y先生が出してきた食道を押し広げるためのチューブを見て、一瞬、体がこわばった。それはツルツルした暗灰色の先細りの管で、アリクイか小象の鼻を思わせた。長さは70−80センチ程度だろうか。根元の太い部分の直径は1.8センチ、食道の直径が1センチあればたいていのものは飲み込めるので、これで十分なのだそうだ。十分どころか、このチューブがのどに押し込まれてゆくときには、まるで硬質塩化ビニルの水道管を飲み込んでいるような気分だった。管がのどの奥に進んで行くにしたがって、のどに軽い痛みが走る。吻合部の広がってゆくのがはっきりとわかった。チューブは根元の10センチほどを私の口の外へ出して止まった。「10分ほどこのまま入れておきますからね」といって、Y先生は部屋から出て行った。看護婦が様子を見ていてくれたけれど、こちらは口から煙突のようにチューブを出して、身動きがとれない。口から串を刺されて炭火焼にされる小魚のようだ。幸い、力さえ抜いていればさほど苦しいことはない。10分間は以外に短かった。チューブが引き抜かれると、口から出た唾液には少し血が混じっていた。それほど強い麻酔ではなかったので、歩けないことはなかったが、いわれるままに車椅子に乗って看護婦に押してもらって病棟へ帰った。ベッドに横になると、薬のせいかすぐにウトウトして夕方まで眠った。のどの痛みはその後、一晩で消えていた。 退院を翌日に控えて、ベッドの周りを片付けた。二か月近くも入院しているといろいろと小物がたまってくる。友人が持ってきてくれたアサヒスーパードライの小瓶の栓を抜かないまま置いてあったのが出て来た。こっそり、一杯やっても良かったのだが、結局入院優等生の看板を下ろす勇気は出なかった。タオルや洗面具、いただいたカードやお守りなどを紙袋とボストンバッグに詰めていった。読みかけの雑誌は、入院仲間に配ってまわった。夜になって消灯時間が来て、ベッドの周りにカーテンをひいて一人になっても、なかなか寝付けなかった。起き上がって窓の外に目をやると大阪城のライトアップ時間はとうに終わっていて、天守閣は大阪城公園の闇に沈んでいた。大阪ビジネスパークの背の高いビルの群れの上に赤く光るライトを見つめているうちに、私は退院するのが怖いのだと気がついた。 この病棟にいれば、周りの人は皆、私がガンの大手術を終えたばかりだと知っている。ほんの少しのお粥をそろそろと食べていても、ゆっくり、ゆっくり歩いていても、体を動かすたびに咳をしていても、ガリガリに痩せていても、かすれてしわがれた声しか出せなくても、誰も私を特別な目でみることはない。仲間は皆がん患者なのだから、具合の悪いのはお互い様だ。ここではみなが、お互いの苦労を分かち合って暮らしている。しかし、病院の外は違う。健康な人たちが、今の私から見れば目もくらみそうなエネルギーを発散させながら生きている世界だ。声ひとつとっても、こんな状態でやっていけるのか? 私の住むイギリスは日本とは違う。「沈黙は金」などという言葉はない。言葉をつくして自己主張しなければ何も始まらない。黙っていれば、やる気がないか、馬鹿だと思われる。漠然とした社会復帰への不安が私の胸をざわつかせる。そんな私をベッドの上に取り残すかのように、窓の外のオフィスビルにちらほらと残っていた明かりも、ひとつ消え、二つ消えして、入院最後の夜はふけていった。 翌日、11時ころに母が病院へ迎えに来てくれた。妻は手術後、私の状態が安定するのを見届けて、すでにイギリスへ帰っていた。妻も責任ある仕事を持つ身だ。そうそういつまでも休んではいられない。荷物をまとめると母に待っていてもらって、病棟の仲間に退院の挨拶をしてまわった。皆に声をかけると、つい話し込んでしまって時間がかかった。最後に、すい臓ガンの手術を数日前に終えたばかりのAさんの部屋を訪ねた。部屋に入ると、付き添っていた看護婦が私の顔を見て口を開いた。 「今ちょっと熱が出て、しんどいところなんやで」 Aさんの顔は上気していて、額にはうっすらと汗がにじんでいた。それでもAさんは、私の姿を見ると顔をほころばせた。 「今日退院することになりました。本当に、お世話になりました」 「もう退院かー、よかったなあ。元気になってや」 ベッドの傍らに立つ私に向かって、Aさんはまだよく力の入らない両手を伸ばした。目には涙が浮かんでいた。私は続ける言葉も思いつかず、その手をとって、ただうなずくことしか出来なかった。 いよいよ病棟を去るときには、MさんとIさんのおじいさん肝臓ガンコンビが、ごろごろと点滴台を押して見送りに来てくれた。Mさんはつい2、3日前に、腹の傷が開いて腹水がたくさん漏れてしまい、夜中に病棟で大騒ぎを起こしたばかりだった。もう歩いて大丈夫なのだろうか。エレベーターの来るのを待つ間、二言三言他愛のない言葉を交わした。エレベーターに乗り込んで振り返ると、手を振る二人の姿を閉じてきたドアがあっけなくさえぎって、私の52日間の入院生活は終わった。
何の気なしに受けた検診で食道ガンが見つかったのが7月の末だった。8月のイギリスでの検査ではT2N0M0のステージIIA、9月の術前検査では転移と思われるリンパ節腫大があり、 |